オウム真理教報道が家族を変えた 報道の夢追いかけた20代

オウム真理教報道が家族を変えた 報道の夢追いかけた20代

NHK、リクルート、パーソルキャリアを経てフリーランスの広報、コンサルタントとして働く松尾れいさん(43)。20代のころはメディアへの憧れを捨てきれず、新卒で入社した会社をわずか1年半で退社、アルバイトからキャリアを積み直しました。

プライベートでは離婚と再婚、不妊治療を経て出産。子育てをしながら初めて管理職も経験しました。「女性が経験するであろう、キャリアの悩みは全て経験してきたかもしれません」と松尾さんは笑い飛ばします。

自分に合った働き方や仕事と家庭とのバランスはライフプランにとって重要なポイントとなります。4回にわたるこの連載では、時に葛藤しながら、夢に向かってさまざまな壁を乗り越えていく松尾さんの思いに迫ります。

第1回では上場企業の正社員の立場を捨て、報道の世界へ飛び込んだ20代を語ってもらいます。1995年に発生したオウム真理教事件をきっかけに、メディアの強い影響力を意識した松尾さん。しかし夢が叶うと同時に失ったのは、同事件で傷ついた家族との時間でした。


目次

手にした報道のやりがい、失った母との時間…20代の夢と現実

上場企業に新卒入社も「マスコミの夢を捨てられない」

松尾さんが社会人になったのは、2003年のこと。東京都立大学の理学部化学科を卒業後、化粧品会社のノエビアに総合職で新卒入社します。しかし、松尾さんには忘れられない夢がありました。

「本当はマスコミに行きたかった。報道の仕事をしたかったんです」

きっかけは、宗教団体「オウム真理教」による一連の凶悪事件でした。1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起こります。営団地下鉄(現東京メトロ)の複数の駅構内や列車内で猛毒のサリンがまかれ、14人が死亡、6300人以上が重軽傷を負いました。日本の犯罪史に残る無差別テロ事件です。

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世間を震撼させたこのオウム真理教事件は、松尾さんにとって他人事ではありませんでした。

佐賀県出身の松尾さんには、4歳年上の兄がいました。勉強も運動もできた、一家の自慢の兄は東京大学に進学。事件が発生したのは、兄が東京大学1年生の時のことでした。

当時、オウム真理教には、東大や京大、早慶などの学生やOBが入信していると報道されていました。教団の広報戦略や、独特の儀式などと相まってセンセーショナルに報じるメディアも多かったのです。

あの家の長男は、オウムらしい──。松尾さんの地元ではそんな事実無根の噂が流れました。

「母が回覧板を持っていくと『オウムのビラ配りをしている』と言われたり、買い物で近所の人に挨拶しても無視されたり。私も『オウムの妹』と呼ばれ、上履きに画鋲を入れられたり、自転車のサドルに唾を吐かれたりといった嫌がらせを受けました」

やがて松尾さんの母は外出できなくなり、心を病んでいきました。

「専業主婦だった母にとって、兄は何よりも自慢の息子でした。だからこそ、人生を全否定されたような気持ちになったのかもしれません」

報道がきっかけで変わってしまった家族。これをきっかけに、松尾さんの中には強い思いが生まれたといいます。

「事実でもないのに、報道の一部と関係する『東大』というキーワードだけで、勝手に噂を流す人、そしてそれを信じる人がいる。恐ろしかったです。報道の影響力を肌身で感じました。でも、だからこそ、自分も報道に携わってみたいと思ったのです」

しかし、そんな思いとは裏腹に、新卒時の就職活動はまったくうまくいきませんでした。

“全落ち”にもメゲズ アルバイトでTBSに潜り込む

新卒採用でテレビ局や新聞社を受けるも「全滅」してしまった松尾さん。新卒採用時の面接では「ただ漠然と『ニュースに関わりたい』と伝えることしかできなかった」と敗因を振り返ります。

化粧品メーカー「ノエビア」に入社して代理店営業を続けながらも、報道への思いをあきらめきれませんでした。どうにかマスコミに転職する手段がないか模索していた時、情報誌で見つけたのがTBS報道局のアルバイトでした。

「アルバイトでも、よく働ける人間だと思われたら社員になれるかもしれない。内情が分かれば、中途採用で有利になるかもしれない。チャンスかも、と思いました」

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正社員の職を1年半ほどで手放し、2004年9月からは、TBS報道局のアルバイトとして働き始めます。担当したのは、ニュース映像の編集の仕事でした。

「どのような映像が視聴者に分かりやすいのか意識しながら、スピーディーにニュースの時間までに映像を編集しなければなりません。初めはすごく難しかったです」

自分の編集で初めて出したニュースは、どこかの公園で、花が満開で観光客が楽しんでいる──といった何の変哲もない内容。

「それでも、ニュースに関われていることが、すごくすごくうれしかったですね」

「お前がショボい!」本気で叱責してくれたNHK上司

TBSで1年弱、アルバイトとして働くうちに松尾さんの目に留まったのはNHK山梨での契約キャスターの募集でした。キャスター志望ではありませんでしたが、報道のキャリアの可能性を広げるチャンスだと考え、面接に臨みました。

新卒・正社員といった安定を捨て、一途に報道を目指してきた思いが伝わったのか、採用に関わった面接官からは「そこまで強い気持ちを持っているんだね」と声をかけてもらったそうです。

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新天地のNHK山梨でキャスターとして現場に出始めた松尾さん。その中でいくつかの失敗もありました。大正時代の農機具が並ぶ展示会では、自身の感度の低さを痛感したそうです。

「正直、農機具には興味がなかったし、面白いポイントも見つけられずに帰ってきてしまいました。デスク(編集を担当する上司)に『どうだった?ニュースとしては難しそうだったか?』と聞かれたので『ショボかったです』と答えたんです」

すると、原稿に目を通したデスクは烈火のごとく怒りだしたといいます。

「『展示会がショボいんじゃない。お前がショボいんだよ!』って。『お前の原稿は担当者の説明の聞き書き。当時の生活を調べて、その人たちの気持ちを想像しながら記事を書いたか?』。そう言われてガツンと響きました。オウムのことがあって、あらゆる角度から物事を捉えて情報を届けたいと思っていたのに、展示会すら取材できていない。情けないなと」

今であればパワハラと受け取られかねない言動かもしれません。しかし松尾さんは、契約社員だからと手加減することなく、正職員と同じように向き合ってくれた上司に今でも感謝しているといいます。

「これを機に、より真剣に報道の仕事に向き合うようになりました」

震災報道に手応えも…母が体調悪化

2005年からは、NHK渋谷放送センターでディレクターとしての勤務を始めました。念願のステップアップ。個人事業主としての契約でした。

数年間、夕方のニュースを担当したのち「週刊ニュース深読み」に異動。2011年3月11日に発生した東日本大震災の際は、1カ月経たないうちに現地に入り、取材を始めます。

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「初めて現地に入った時は、がれきが目の前に広がるあまりの状況に声が出ませんでした。それでも、被災した方々に『報道に来てくれて、私たちが困っていることを世のなかに伝えてくれてありがとう』と言われたことがありました。意味があることができているという思いと、でも自分には、報道しかできないという思い――。苦しかったです」

悩みながらも制作した、東日本大震災に関する「週刊ニュース深読み」には大きな反響があり、手応えを感じたといいます。

しかし、時を同じくして、同居していた母の体調が悪化していきます。

「働くことは、生きること」転職を決意

地元を離れ、東京で松尾さんと同居していた母。しかし、オウム事件をきっかけに発症した精神的な病気の悪化と並行して、原因不明の腹痛が続くようになりました。

「いくつもの病院を渡り歩いても、原因は分かりませんでした。母はとても苦しそうで、見ている方も辛かったです」

家族の急な怪我や病気などで、予期せず看病や介護を経験する人は少なくないはず。松尾さんもまさにその1人でした。やがて、こんな葛藤が生まれます。

「いい番組は作れるようになったけれど、私は体調の悪い母と一緒にいてあげることすらできないんだ」

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震災後は、東北への出張だけでなく、通常の出社日で帰宅が午前2時を過ぎることもしばしば。当時のマスコミは長時間労働が当たり前で、仕事が家族よりも優先される時代でした。

「母のために、早く帰りたいと言い出すことすらできなかった。ずっとこういう働き方をしなければならないんだ、と思った時に『長くやっていけるのかな』と思いました」

葛藤しながらも、震災から3カ月後、半年後、といった節目ごとに、東北に足を運んでいた松尾さん。そんな中で、強く印象に残る出来事がありました。

「被災直後は『家も仕事も全て失ってしまった』という、現地の方々の絶望の表情をあちこちで目の当たりにしました。しかし、その方たちが仕事を始めて『働けて人の役に立てるのが嬉しい』と、目をキラキラ輝かせた表情に変わっていくのを見たんです。『ああ、働くことは、生きることなんだ』と実感しました」

働くということに、本気で携わりたいと考えた松尾さん。7年在籍したNHKを離れ、「リクナビ」や「リクナビネクスト」など、人材紹介サービスを展開するリクルートキャリア(現在のリクルート)への転職を決意します。

報道の世界を離れ、リクルートグループに転職した松尾さん。
持病の橋本病や子宮筋腫の治療をしながら、不妊治療の両方に挑みます。やがて待望のわが子を授かりますが――。(第2回へ続く)

(取材・文:富谷瑠美、デザイン:高木菜々子、編集:竹本拓也)


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