石川さんは新卒で入った人材派遣会社を2年で退職。実家暮らしの頃から料理が好きだったことが高じて、その後は料理の世界へ飛び込みました。東京・銀座のビストロで5年間シェフを務め、妻の海外転勤のために帯同したパリでも料理人として研鑽を積みました。
自分が腕を振るった一皿に対して「ありがとう」の言葉がダイレクトに返ってくる。そんな日々には、会社員時代には味わえなかった満足感がありました。
料理の世界で順風満帆なキャリアを歩んできた石川さんですが、その一方で「料理だけで生きていくのは難しいかも」という思いも抱えていました。
石川「会社勤めの妻と僕とは生活リズムが合わないことがあります。それに僕たちの世代は60歳で定年というわけにもいかないでしょう。70〜80歳まで働き続けると考えると、料理人以外の選択肢を早いうちに持っておくというのは自然の流れでした。いくつかの道があると、必然的に掛け合わせのチャンスも生まれてもっと強いキャリアを描けるかなと」
異業種転職を考えたときに、まず頭に浮かんだのは「料理人との共通点があるか」でした。
料理人と企業広報──。
両者の関係は一見薄いようにも見えますが、石川さんにとってはかなり近しい仕事に感じられたようです。
石川「もともと自分の料理を介して出会いの場をつくることに喜びを感じていました。それを実現するためには、まずお客さんに来てもらわないといけないし、自分が多くの人と知り合わないといけない。情報を拾い上げ、受け渡し、広めていくという意味で、料理人としてやってきたことと広報の仕事は遠くないと思っていました」
転職活動にあたってキャリアの棚卸しもしました。すると自身がすでに公私で「広報的な」活動をしてきたことに改めて気付きます。
パリ在住中からブログを執筆。日本人旅行者向けにフランスのレストラン情報やマルシェの楽しみ方などを発信
シェフやパティシエでつくる一般社団法人CookForJapanに参加。台風で被災した農家野菜の消費拡大を目指し、SNSによる情報発信やホームページ制作を担当
何よりSNS上での交流が好き。Twitter(現在X)アカウントには自身のお客さんなど約4000人のフォロワーがついていた(現在は1万人に)
発信力が認知され、業界では「ソーシャルシェフ」の愛称で親しまれていた
パリのブログは石川さんの文章力の高さに気付いた友人が「書いてみたら?」と薦めてくれたのがきっかけでした。テーマも専門分野である食だけでなく、パリ市街地で頻繁に開催されるデモの情報なども網羅し、日本人旅行者の街歩きにトータルで役立つ情報を意識したといいます。その結果、多い月で20万PVを獲得するメディアになりました。
広報の実務経験はなかったものの、こうした実績を面接で語ると企業側の「食いつき」も違ったそうです。それが功を奏してか、石川さんは最初に受けた不動産会社から内定を獲得。その後に辞退しましたが、転職活動の初期に内定をもらったことで、気負いなく選考に臨めるようになったそうです。
引っ越し通算15回。「実体験で語れる」業界を選んだ
最終的には15〜20社に応募し、3社から内定を得た石川さん。職種は広報とライターを中心に探し、業界は不動産や不動産テック業界、飲食テック業界に狙いを絞りました。
不動産を選んだ理由は学生時代に建築を専攻したから。でもそれだけではありません。これまでに15回経験したという引っ越しとマイホームの購入が大きく影響していました。
石川「手書きの契約書や重要事項説明の読み合わせ…。そのたびにお客さんは何時間も拘束されます。不動産業界ならではの不便さを肌で感じる瞬間が多かったんです。今はスマホ一つで出前ができる時代だから、テクノロジーでこうした不便を解消すれば未来が明るくなるしマーケットも大きいんじゃないか。何より不動産分野については、ユーザーとしての思いを実体験をもって語れるのが強みだと思いました」
もう一つ、石川さんが企業選びで大切にしたのは「誰と働くか」でした。
転職サイトで気になった企業はすべて担当者に直接連絡を取り、カジュアル面談などを申し込みました。
「楽しそうに仕事をしているか?」
「どんな表情で仕事のことを語っているか?」
こうした判断基準を持ちながら、自分が実際に働くイメージを膨らませていったのです。
石川「気になる企業があるなら、企業研究よりも実際に会って話してみる方がよく分かる。長い目で見ると、どの企業で働くかよりも、誰と一緒に仕事したいかの方が大切だと思います」
転職活動中に「未経験」「年齢」のハードルを感じなかったわけではありません。
そこで石川さんを奮い立たせてくれたのはパリでの料理修行の経験でした。夫婦そろってのフランス移住とはいえ、慣れない環境での仕事は想像以上に厳しいものでした。
石川「一番の苦労は言語でしたね。フロアのサービス部門には英語を話せる人もいましたが、キッチンはフランス語だけ。さらにはスピーディーな意思疎通が求められます。自分より若い20代の先輩からダメ出しされるのも日常だったし、暴言を浴びせられたことも。日本人というマイノリティとして生きる大変さを味わいました。
でもこうしたハードな経験をしていたからこそ、異業種転職へのハードルをそこまで大きく感じなかったのはありますね。面接でも、当時の経験談を通して自分の適応力や対応力を評価してもらえたんじゃないかと思います」
異業種転職に興味があるが「一歩が踏み出せない」という人はどうすればよいでしょうか?
石川さんは、まず今の社内で関心がある他職種の人と話をしてみることを薦めています。同期がいると話を切り出しやすいかもしれません。
社内で見つからない場合は、気になる業種のオフライン交流会やオンラインセミナーに参加するのも手です。「まずいろんな人から情報を得ること。そうすればやりたいことの輪郭が見えてくるはず」とエールを送ります。
いえらぶGROUPの企業広報に転身して1年余り。現在は同僚1人との2人体制で自社情報の対外発信などを担っています。これまで関わったプレスリリースは100件超。メディア露出件数は対前年比で7倍になりました。自社サービスの利用企業は約2万5000社に上ります。
今年5月には自らの提案で「不動産取引の電子契約全面解禁から1年」の節目に合わせた調査結果を発表。業界紙以外のメディアから問い合わせが入るなど手応えを感じています。
異なる業種・職種での再出発をスムーズに始めた石川さんですが、転職で誰もが感じがちなカルチャーギャップをどのように埋めているのでしょうか。
会社は600人を超える大所帯(グループを含む)で、社内コミュニケーション活性化のため、石川さんは頻繁に他部署の社員とランチに出かけています。ランチによる社員交流がもともと盛んな組織で、石川さんが入社前から好感を持っていたカルチャーだそうです。
石川「普段は顔を合わせないプロジェクト担当者に思いを聞いたり、アップデート後の製品の感触を聞いたり。こうした話を聞いて広報に活かせることってたくさんあるんです。もちろん、自分の企画が思い通りにいかないこともありますが、それは海外で働いていてもそうですし、料理でもそう。みんながなんとなく働くのではなく『やりたいことを明確に持ってやっている』環境で働けていることに高い満足感を感じています」
(取材・文:竹本拓也、デザイン:高木菜々子、編集:野上英文)