1968年にカナダのオンタリオ州で生まれたポールさんは、地元カナダの大学を卒業後、リュックサック1つを抱えて来日した。地元の他の学生たちと違って就職活動をせず、大学院にも進まない。そのうえ向かった先はヨーロッパではなく、馴染みの薄いアジア。本人も「ちょっと変わってるなあ〜と思われていたかもしれませんね」と振り返る。
胸にしまった所持金は、日本円にしてわずか2万5000円。「英語が通じる」と勘違いしていたので、日本語の勉強はまったくしていない。今は関西弁混じりの日本語を流暢に操るが、当時は読むことも、書くことも、話すこともできない“三重苦”だった。
日本について事前に図書館で調べた末に「しゃべるのも食べるのも笑うのも好き」という大阪に狙いを定めて来日したものの、コミュニケーションを取れず途方に暮れ、安宿が軒を連ねる西成の公園のベンチで寝ていたという。
それでも将来については、しっかりとした考えがあった。
「私の父親はカトリックの高校で教師をしていて、母親も小学校で教師をしていました。両親の友だちも教師ばかりで、兄は警察官、弟は消防士をしています。みんな故郷に残って、人のために働いています。私はみんなと違ってカナダを離れ、ビジネスの世界にいますが、人のための仕事をしたいという思いは同じです。それは日本に初めてきた頃も今も変わっていません。社会によい影響を与えられるような仕事をしたいと願っていたのです」
怪我や病気に悩まされる人たちの苦しみを和らげる医薬品の重要性は、世界中が新型コロナウイルスに振り回されたこの数年で、さらに高まってきている。新薬の開発にはスピードと安全性が求められるうえ、貧困に苦しむ人たちにも行き渡るような仕組みも必要だ。だれもが安心して必要な医療を受けられる環境づくりは、人のため、社会のための仕事に他ならない。
「私たちが日常的に目にする嗜好品の中には、例えば煙草のように健康を害するものも少なくありません。そういう商品を扱う会社には絶対に就職しないでしょうね。それらの商品には高い税金が課せられていて、徴収されたお金は我々の暮らしに還流させられるようになっていることは理解しています。それでも人のため、社会のためになっているとは思えません。
あとはNGOやNPOで働くというのも選択肢の1つですね。非営利の組織なのでビジネスの世界とは違いますが、こちらは人のため、社会のためになる仕事です。ちゃんと生活ができるのが大前提ですが、ためになる仕事であるのは明確で情熱を注ぐことができます。もしかしたら、これから先に関わる可能性もあるかもしれませんね。
教師として働いた父親は、平日に給料分を働けば終わり、という生活をおくっていませんでした。自分で自由に使える週末は、社会貢献やボランティア活動に時間を割き、人々のために色々と尽くしていた。私もそんな生き方をしたいと思っています」
もう1つ考えられるのがエンターテインメントの世界。どちらかといえばお堅い職業が念頭にありそうなポールさんにしては意外な選択に感じるが、その理由を聞けば納得だ。
「エンターテインメントといっても、特にスポーツの分野ですね。私は子どもの頃にアイスホッケーのチームに入っていて、キャプテンも任されていました。アイスホッケーは今も大好きなスポーツです。そのプロリーグを運営する組織、北米だとNHL(ナショナルホッケーリーグ)になりますが、社会貢献に近い仕事に携われると思います。プロスポーツは子ども達に夢や希望を与えることができます。例えばイベントの開催などを通じて、深刻な病気にかかっている子どもたちを励ますことができますよね。そういう仕事をやれたらいいなあと思いますね」
米メジャーリーグのドジャースに移籍を決めた大谷翔平選手は、全国の小学校に6万個のグローブを寄贈する取り組みを始めて話題になった。過去にも大勢のスター選手が、小学校や病院を訪れ、子どもたちを元気づけてきた。スタジアムに招待した子ども達に、自らが懸命に頑張る姿を見せることで、生きる勇気も与えてきた。その準備を進める裏方も、人のため、社会のための仕事である。
もっとも、日本に来る前は、少し違った未来を想像していたそうだ。
「弁護士としての将来を思い描いていましたね。日本で半年ほど過ごしてからカナダに戻って必要な資格を取得するという道筋です。来日する間に法学部に合格していて、帰国後に入学するプログラムを活用することにしていました。でも、半年の予定が1年になり、2年、3年、5年と延びて、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)に遭遇したんです」
翌日からほぼ毎日、大阪の自宅から神戸の三宮まで、支援物資を抱えて足を運んだ。ボランティア活動をするためだった。
「水や食べ物を持って電車に乗りました。西宮から先は線路が崩れていたので、その先は三宮まで歩いて。大雨の中、亡くなった人たちの姿も目の当たりにしました。本当につらい経験でしたね。それで人生観が変わったんです。改めて、自分は何をすべきかを考えました。そもそもなぜ自分は弁護士になりたいんだろうと問いかけたのです。
もちろん人のため、社会のためというのは根底にあったんですが、その一方で経済的な側面も考えていました。高級車に乗ってかっこいいスーツを着て働く姿を想像していたんです。すごく軽いですよね。虚しいと思いました。これはもう1度、考え直した方がいいと思って、カナダに戻って弁護士を目指すのはやめようと決めたのです」
カナダに帰国後は大学院を経て公立高校で教師となる。その後は再び来日し、大阪薫英女学院で国際教育や留学プログラムの責任者を8年間務めた。
「いま振り返れば、女子校時代にやっていた仕事の本質は人材サービスと同じで、人と人をつなげるマッチングの仕事でした。当時は毎年120〜130人の高校1年生をカナダとニュージーランドの学校に送り出していました。受け入れ先の教育委員会とミーティングを重ね、航空会社や保険会社とも交渉をしました。うまくいけばwin-winで、貴重な経験になります。みんな大切な子ども達。やりがいはありました」
その後は人材紹介会社に転職し、日本やシンガポールなどの市場を開拓。ランスタッドの日本法人に入社後は、インド法人に着任してCEOなども務めた。
「人材サービスのビジネスも、人のため、社会のため、そして国のためになる仕事です。仕事がない人、就職できない人は、ひどく落ち込むんですね。うつ病になってしまうことも少なくありません。これは日本に限ったことではありません。社会に拒絶されているような気がして、自信を失ってしまうのです。多大なストレスを抱え、過度に酒を飲んで憂さを晴らそうとすれば、健康を害してしまう恐れもあり、悪いことに手を出してしまうこともあるかもしれません。仕事のない人が増えるほど社会は問題を抱えることになります。
逆に仕事を見つけた人は、急激に元気になります。結婚して子どももいて、面接を何度受けてもオファーを得られない。でも、ある日、仕事が決まったとなると、大喜びです。それを伝えるためにプレゼントを持ってきてくれる人までいます。
それぞれの人が仕事を見つけることは、社会の安定にもつながります。雇用を支援するための支出が減り、個人所得の税収が増える国にとってもプラスのはずですよね」
むろん高収入を得られる仕事そのものは、否定されるものではない。だが、自分のためではなく、誰かのためになるほうが、無条件に情熱を注げるという人は少なくない。
我々は何のために働くのか、もう一度問い直すことが必要だ。
(取材・文:二口隆光、デザイン:高木菜々子、編集:富谷瑠美)
ランスタッドは2023年12月31日付でポール・デュプイ代表取締役会長兼CEOの退職を発表した。