7年間在籍したNHKを離れ、30代最初の転職でリクルートグループを選んだ松尾さん。転職サービス「リクナビ」などを展開するリクルートキャリア(現リクルート)、そして3年半後には、社内転籍制度を使って住宅情報サービス「SUUMO」などを運営するリクルート住まいカンパニーの広報業務を担当することになりました。リクルートグループには、通算7年ほど在籍します。
特に思い出深いのが、入社してすぐに担当した転職サービス「リクナビネクスト」の広報業務でした。
元NHKディレクターとして企業の広報とやり取りすることはあった松尾さんですが、広報業務そのものは未経験。そして、上からミッションを課されるのではなく「あなたは何をやりたい?」と聞かれるのがリクルート流です。
同僚は広報経験者がほとんどである中で、自分はどんな価値を発揮できるのか――。そんな中で、松尾さんは、「リクナビネクスト」の関西でのメディア認知が低く、露出を増やす余地があることに気づきます。毎月1回、泊まりがけで関西に出張し、新聞やテレビの記者と交流するようになりました。
「例えば5大紙(読売、朝日、毎日、日経、産経の新聞社5社)があるとしたら、1回の出張で4社の記者さんと会って、夜はまた別の記者さんと飲むとか。行く時は必ず、今の転職市場の状況や、それに対する考察などをまとめて、いわゆる『おみやげ』を持っていくようにしていました」
「特に新聞は、記事化する場合ほとんどのケースで事例が必要です。取材可能な事例が3社分あると公平性も担保される、ということを報道経験者として知っていたので、知り合いの広報にも声をかけて必ず事例とセットで情報を提供できるようにしていました。例えば、製造業界の市場動向だったら、知り合いの製造業の広報にあらかじめ声をかけて、取材可能な事例を集めておく。私としては、それと併せてリクナビネクスト編集長のコメントや、調査結果などが紹介されればよいので、誰にとってもwin-winだったのです」
メディアリレーションに力を入れた結果、「関西の記者とのつながりの数や深さなら誰にも負けない」と自信を持てるようになったという松尾さん。在阪メディア露出で大きく実績を伸ばし、会社からも準MVPとして表彰されます。
同居していた母親との時間を大切にするために報道の道から退いたものの、やはり心のどこかに記者への憧れは残っていたようです。
「記者に有益な情報を提供することで、対等に会話ができるようになります。そのうち私の情報を求めて『何か面白い動きはない?』と電話を下さる記者さんも増えました。憧れていた仕事の力になれていると思うとすごく楽しかったですし、広報として介在する価値も感じられるようになりました」
自分にとって全く新しい職種である、広報としての立ち位置を見つけた松尾さん。自身3度目の転職でリクルートグループに入社転職したのは32歳のときでしたが、リクルートに入社する前に離婚を経験します。そんな松尾さんには「再婚して子どもを持ちたい」という願いがありました。働く女性であれば、自身のキャリアと、出産、育児といったプライベートの両立に頭を悩ませている人も少なくない年齢です。
しかし、松尾さんにはそれ以前に、持病という大きなチャレンジがありました。
「私は当時、甲状腺の機能が低下する『橋本病』を患っていました。日常生活には支障なかったのですが、ホルモンの値を計測したところ、医師から『この値では、妊娠しても卵がちゃんと育たない。妊娠を継続できない』と言われてしまったのです」
さらに検査を進めると、大きな子宮筋腫があり、手術が必要であることが判明します。医師からは、橋本病によるホルモン異常が正常に戻っても、子宮筋腫を手術で取らない限りは「赤ちゃんが胎内で育たない」と宣告されてしまいます。さらに、術後1年間は、子宮破裂の危険があるから不妊治療(人工授精)はできないと言われました。当時、私は36歳くらいだったんですよ。データ上は37歳前後が、自然妊娠の確率が下がる大きな分岐点なんです。その2年間を無駄にするのか、とものすごくもどかしかったですね」
「治療と手術をしてでも子どもが欲しい」勇気を持って話せた
どうしても子どもが欲しい。そのために2つの病気を絶対に治す――。固い決意のもと、松尾さんはホルモン治療を受けながら、37歳のときに子宮筋腫の手術を受けます。
その一方で、子どもを持つ、という選択をする上で、大切だったのは現在の夫、当時のパートナーとの対話でした。2人とも再婚でしたが、夫にはすでに以前の結婚でもうけた2人の子どもがいました。
そんな当時の夫に対して、松尾さんは入籍する前から、持病を治療してでも子どもを持ちたいこと、2年ほどかかる治療が終わったらすぐにでも不妊治療をしたいことを打ち明けたそうです。
自身の希望を伝えたとしても「もう子どもはいらない。どうしても欲しいというなら再婚できない」と言われるかもしれない。そんな恐れはなかったのでしょうか。
「もちろんありました。でも、もしそう言われたら逆に『自分は子どもがいなくても、この人と共に生きていきたいか』と自問自答することになりますよね。自分自身の気持ちもクリアにできると思って、勇気を持って話してみました」
夫は子どもを持つことには賛成したものの、持病の治療後にすぐに不妊治療をすることについては渋ったといいますが――。
「高齢出産のリスクについて『1歳年齢が上がるごとに、どれだけリスクが増えるか』というグラフを見せて説明しました。『私には本当に時間がないの』って。最終的に、納得してくれた夫に感謝しています。やはり、ファクトって、大切ですよね(笑)」
こうして橋本病の治療、そして子宮筋腫の手術を無事に乗り越えた松尾さん。手術の傷が癒えたあとに、一度の不妊治療で待望のわが子を授かります。
長期にわたる通院や手術と、仕事の両立で大変なことはなかったのでしょうか。
「リクルートは当時から成果主義。自身の目標を達成してさえいれば、通院や手術で不在でも、とやかく言われることはありませんでした。その点では私は恵まれていたかもしれません。ただ、突発的な出来事が起こっても対応できるように、可能な限りできる仕事は事前に進められるところまで進めておくようにしていました」
「不妊治療については、同じグループの同僚と個別にランチに行くようにして、その時に事情を伝えていました。1対1で話をすると、こちらの思ったことを一方的に話すだけではなく、相手も疑問に思ったことをこちらに質問しやすいですよね。その結果『確かに1周期も逃したくないよね』『今が大切だよね』と理解をしてもらえたように思います」
しかし同時に、忘れられない悔しい思いも経験したといいます。
「不妊治療を始める前に『管理職を目指してみないか』と打診をされていたんです。私としては自身の治療に目が向いていたけれど、そう言ってもらえるなら頑張ってみたいと思って承諾したのです」
リクルートでは、四半期ごとに目標の達成度を評価する評価面談があります。松尾さんの記憶では、次の面談で特に問題がなければ、管理職推薦があるはずでした。
この時期、幸運にも第一子を授かった松尾さんは、そのことを上司に伝えます。やがてやってきた評価面談では、未達成の目標もなかったはずだといいますが、管理職推薦の話について上司が触れることはありませんでした。
「納得がいかなかったので、別の機会に上司を捕まえて『管理職推薦の話はどうなったんでしょうか』と聞いたのです。そうしたら、こともなげに『ああ、育児との両立は大変だから』と流されてしまったのです」
この対応に納得がいかない松尾さん。人事に直談判しましたが、最終的な回答は「ポジションの調整がつかなかった」というものでした。
「私としては正直なところ『マタハラじゃないか?』と感じました。せめて上司は私に『管理職に推薦すると言ったけれど、育児との両立は大変だと思う。それでも頑張るか?』と聞いてほしかった。もしくは『あのように言ったけれど、管理職のポジションが空かなかった。期待をさせて申し訳なかった』と真摯に話してくれたら、あんな気持ちにはならなかったのに……」
この時の悔しさは、のちに自身が管理職になった際の戒めにもなったといいます。
やがて無事に出産し、産休と育休を経て仕事に復帰した松尾さん。しかしこの出来事をきっかけに、再び新たなキャリアの道を模索し始めます。(第3回へ続く)
(取材・文:富谷瑠美、デザイン:高木菜々子、編集:竹本拓也)