”切り込み隊長”のニックネームでブロガーとしても知られるほか、コラムニストやYouTuberとしても多くの媒体で発信活動を続ける山本さん。しかし、インターネット上でその名前を聞いたことがある人は多くとも、一体、何を生業にしているのか分からない、謎めいた印象もあります。現在はどのような活動をしているのでしょうか。
山本:主に投資業です。海外だとアメリカやオーストラリア、南ヨーロッパなどの商業施設に関連するREIT(不動産投資信託)の組成に関わり、日本ではニセコのスキー関連施設への出資や、新潟や熊本といった地方都市の集合住宅への不動産投資を手がけています。
全体の収入のうち、投資業が大部分を占めていますが、関係会社に運営を委託することが多いため、仕事に費やす時間としては15%くらいの割合になっています。
残りの85%くらいは物書きの仕事をしたり、ペンネームでシナリオを書いたり、IT関連のコンサルティングや知的財産権管理のサービスを提供したりと、さまざまな仕事をしています。
また、長年にわたって選挙地盤の調査や、有権者の意見をまとめたデータ解析など、選挙関係の仕事にも携わっています。
私のキャリアを言葉にまとめると「取材」「語学」「数学」という3つのキーワードに集約されると考えています。
媒体での執筆や本の出版、外資系企業との交渉や折衝、統計学と数学の知識を活かしたデータ分析みたいなものは、まさに先ほどのキーワードを体現しているものだと言えるでしょう。
新NISAが始まり、日経平均が過去最高値を更新したことで「オルカン」や「S&P500」などのインデックス投信への積み立てがブームになっています。
しかし、現在投資家として身を立てている山本さんのキャリアの原点は、1990年代初頭のインターネットバブルの時代。パソコン関連の個別株に投資するところから始まったそうです。
山本:私は大学時代にアメリカへ留学していました。現地では、住友スリーエム(現 3Mジャパングループ)の前身だったミネソタ・マイニング・カンパニー(MMC)という企業でインターンをしていて、労務管理のプロジェクトに関わらせてもらっていました。
実は、その会社の取引先がコモドールやDEC(デック)といった、当時ものすごく活況だったパソコン関連企業が多く、自然と興味・関心を持つようになりました。
そこから証券口座を作って、自己資金で株式投資を始めたのです。1993年ごろのことでした。その頃はちょうど「Windows95」の台頭が騒がれ、これからパソコン関連企業が成長株として注目されるタイミングでした。
私も学生ながらパソコン関連企業の株を買って投資運用を行った結果、大学卒業を迎える頃には、4億4千万円ほどの利幅を取ることができたのです。
大学を卒業して社会人になる前から投資を始めたのが、自分にとって「キャリアの原点」になっています。
アメリカに留学し、4カ月ほど充実した留学生活を送っていた山本さん。しかしある日、家業が多額の負債を背負い、倒産の危機に瀕しているという連絡が――。
留学を中断し、強制帰国せざるを得ない事態に直面します。家業はもやは破産寸前。それを立て直すために、山本さんが下した結論は、自身が投資で得た利益を崩し、遅延していた残債と利息の支払いに充て4億円の借金を肩代わりして返済する、というものでした。
山本:なぜ、そのようなことができたかというと、約13億の借金のうち、担保融資が8億に対して残りの5億は過剰融資という、典型的なバブル時代の融資条件だったからです。
不良債権処理の一環として、会社を無理やり清算させるシステムがあるのですが、これは借り手側の都合を全く考慮していないもので、しっかりとリスケジュール(融資条件の変更)を交渉しに行けば、何とかなるのではという目算がありました。
そこで、日本政策金融公庫や銀行といった金融機関へ出向き、「利息の返済だけにしたい」と説明しに回り、結果として当初の担保額から半分くらいにまで落とすことができたのです。こうした交渉をしてきた企業は初めてだ、と当時の融資担当者に言われました。
留学生活が突如終わりを告げ、さらには多額の借金返済を肩代わり。理不尽さに腐ってしまいそうなものですが、山本さんは「なんで俺が?」とは思わなかったといいます。
山本:結局は、自分しか家を助けられないわけです。父親も「親孝行な息子だ」と口では言いつつ「やって当たり前」と思っていたような節があります。それに自分でも「俺なら何とかできるんじゃないか」と思ってしまったのです。
父親が営んでいた会社は、貿易関係の売り上げが6割、産業廃棄物の処理が3〜4割。貿易はともかく、他の事業については自分自身あまり興味を持てませんでした。結果として、パソコンの仕事がやりたかったので、大学卒業後はいったん就職の道を選んだわけですが、倒産危機の立て直しで学んだのは「お金の返済とは何か」ということでした。
それこそ、当時は学ランを着て銀行を回っていたくらいで。家業のために必死になって動けた経験は、今でも活かされていると感じていますね。
新卒入社も半年で退社 学べなかった「組織での働き方」
これまでのエピソードを聞いても、大学を卒業する頃にはすでに、投資家として相当な実力を持っていたことが分かります。ところが、山本さんは新卒で就職する道を選び、国際電気(現・日立国際電気)に入社。しかし、その後わずか半年で退社してしまいます。就職氷河期だった当時、何を思って就職し、半年で退社してしまったのでしょうか。
山本:就職活動では、大学の自治会で活動をしていた実績が評価され、6社くらいから内定をいただきました。
その中でも、半導体と通信に興味があったため、国際電気(現・日立国際電気)へ就職しましたが、今思えば「大手企業に入って歯車になろう」という甘い考えで入社してしまったなと感じています。
国際電気では人事部に配属されたのですが、入社前に想像していた業務とはどうしてもギャップを感じてしまう部分がありました。
人事の仕事に変わりはない一方で、会社の組織風土に見合う“イズム形成”や、労働組合の奉仕を担う社員育成など、自分がやりたかった半導体関連の仕事とは全くかけ離れていたのです。
また、サラリーマンになる前から、株式投資で一晩のうちにたくさんの収入を稼ぐ経験もしていたので、月曜から金曜まで働き通して初任給が20万5千円だったのは、少し切なく感じましたね。
社会保険や組合費などが天引きされ、手取りベースでは16万ほどしか残らず、さらに会社の寮へ入りたくても入れず。
「サラリーマン生活は、自分にとって無駄なのでは?」
次第にそう思うようになり、結局のところ入社から半年で国際電気を辞めることになります。
今振り返れば、「組織とは何か」というのを、自分の中で腹落ちさせる前に退職してしまったので、もう少し会社組織で働く経験をしても良かったなと思いますね。
その後、転職せずに起業の道を選んだ山本さん。経営者は誰もが一度はやってしまいがちな「友人と起業」も経験したそうですが、会社員とは全く異なる、経営者特有の問題が降りかかります。
山本:サラリーマンを辞めた後は、大学の先輩から誘いを受けて、1997年に起業しました。主に企業調査と部品の並行輸入品を販売するビジネスを手がけていて、前者の企業調査で言えば、日本進出を試みていた外資系企業向けに半導体関係の市況調査を行っていました。
そのころは新興のパソコンメーカーがしのぎを削っている状況で、自分も盛り上がっている業界の一端を担えればと思っていたのです。
ところが、ライバル企業の不正を探したり、会社同士の抗争に巻き込まれたりと、徐々に人間関係が面倒になってきてしまって。
良かれと思ってやったことが裏目に出る、先方の期待値を取り違えるなど、ビジネスが行き詰まってきたときは、結構大変だったのを覚えています。
また、友人と起業したはいいものの、互いに気心が知れる「信頼感」とビジネスをする上での「役割分担」は全く別物で、そこはうまく分けて考えることの重要性を1度目の起業で学びましたね。
1999年にはITバブルが崩壊。通信やIT関連の株価は大きく下落し、多くの投資家が巨額の損失を被りました。しかし、山本さんは事前に関連株を処分していたので、株価大暴落の影響は免れることができたといいます。代わりにやってきたのが、に再びの父の会社の倒産危機でした。
山本:またしても株式投資の利益を家業の立て直しに充てる必要がありました。しかし、それを経ても自己資金はまだ手元に結構残っていました。そこで、2000年に日本最大級の匿名掲示板「2ちゃんねる」を運営するイレギュラーズアンドパートナーズ社を、西村博之氏(ひろゆき)や竹中直純氏らと立ち上げたのです。
度重なる家業の危機に対して、腐ってしまうことなく「自分しか家を助けられない」と奔走してきた山本さんの20代。記事後編では、山本さんが有名掲示板「2ちゃんねる」の立ち上げに参画し、インターネットの世界に足をどっぷりと踏み入れて何を感じたのか、また、答えのない難しい時代をどのように生き抜くべきなのかについて、アドバイスをうかがいます。
(文:古田島大介、デザイン:高木菜々子、編集:富谷瑠美、竹本拓也)