【前田有紀】元テレ朝アナが見つけた、社会軸より自分軸の生き方
2022年5月9日(月)
—— アナウンサーから経営者に転身するというキャリアは、もともと描いていたものだったのですか?
経営者になるなんて思ってもみませんでしたし、実は、アナウンサーになることも想像していませんでした。学生時代の私に、「この仕事に就きたい」という具体的な目標はなかったんです。
夢に向かって突き進んできたというより、人生の節目で、もっとも心が躍る選択肢を選んできた積み重ねが、現在の私です。
—— 学生時代は、どのような就職活動をしていたのですか?
商社や広告代理店、メーカーなど、業界を絞らずに選考を受けていました。周囲の影響を受けたのもありますが、もともと好奇心旺盛なタイプだったので、自分の目でいろいろ見てみたかったのです。
アナウンサーは、好奇心のアンテナに引っかかった仕事の一つでした。選考が早かったので、腕試しのつもりで受けてみよう、という気持ちもありましたね。
—— いくつかの選択肢があったのですね。最終的に、アナウンサーになることを選んだ理由について教えてください。
どこよりも早く内定をいただけたのと、好奇心旺盛な私にぴったりな仕事だと思えたからです。
私の父は国際線のパイロットで、世界各国を飛び回っていました。そんな姿を見ていたので、かつてはパイロットを目指していたこともあります。毎日が新鮮で、刺激的な仕事に憧れていたんです。
また、私よりも少し早く社会に出ていた姉は、テレビ局で記者をしています。彼女から「テレビ局の仕事は、毎日いろいろなニュースが飛び込んでくるから、同じ日が一日もないよ」と聞いていました。
姉の話を聞いていると、アナウンサーになれば、幼い頃から憧れていた仕事ができるような気がしました。
確固たる「やりたいこと」は見つかっていませんでしたが、毎日のように新しい景色に出会える仕事がしたかった私にとって、アナウンサーはとても素敵な仕事に思えたのです。
—— アナウンサーとして、10年間テレビ局に勤務されていました。当時を振り返り、学生時代の選択は間違っていなかったと思いますか?
もちろんです。入社してからずっと『やべっちF.C.』を担当していたので、「前田といえばサッカー」という印象を持ってくださっていた方が多いかもしれません。でも、実はほかにも、いろいろな番組を担当していました。
報道からバラエティまで幅広く関わらせていただきましたし、食レポも担当していました。ロケで全国を飛び回ることも多く、私にとってアナウンサーは、まさに「毎日のように新しい景色に出会える仕事」だったのです。
「ご縁をいただいたのだから、目の前のことを頑張ろう」とがむしゃらになっていたら、気付けば10年が過ぎていました。やりがいにあふれた仕事で、ファーストキャリアにアナウンサーを選んでよかったなと、今でも思っています。
—— 充実していたアナウンサーの仕事を辞め、新しい仕事に就こうと考えたのには、どのようなきっかけがあったのですか?
アナウンサーはやりがいの多い仕事ですが、どうしても生活が不規則になりやすいんですね。深夜3時に退社する日があれば、早朝4時に出社することもあります。私の場合、常に時差ぼけのような状態でした。
そうした生活をしているうちに、暮らしを大事にするのが難しくなってしまって。部屋は散らかりがちで、余裕がなく、「ずっとこのままでいいのかな」と考えることが増えました。アナウンサーになって、7年目のことだったと記憶しています。
そんなことを考えていたある日、深夜に寄ったスーパーで、レジ横に売られていた一輪の花に目を奪われました。どこにでも売っているような花でしたが、「お家に飾りたいな」って。
このなんでもない出会いが、私の転機になりました。
自宅に戻り、花を飾ってみると、なんだか暮らしが明るくなったような気がしました。仕事ばかりしていた私の暮らしが、とても幸せなものに感じられて。
このとき、ふと「いつか花の仕事がしたいな」という気持ちが芽生えました。お花の力を身をもって知ったことで、その魅力を伝えていきたいと思ったのです。
—— 入社してから、初めて転職を意識したタイミングでしょうか?
現実的に転職を考えるほどではなかった気がします。
自分が知らない土地に足を運んでも「テレ朝の前田さんですよね」と声をかけていただく機会が多かったので、「こんなに応援してもらえているのに、会社を辞めるなんて」とためらう気持ちがあったのです。
両親に将来について相談したこともありましたが、「会社にかじりついてでも、会社員でいたほうがいい」と言われてしまいました。
私のことを心配した親心だったと思いますが、それを聞いて「たしかに夢見がちだな」と思う自分もいて。本当の気持ちは、あまり周囲には話せませんでした。
でも、花が好きな気持ちは変わりません。そこで、部屋に飾る花を増やしたり、友人の開く教室へ花を習いに行ったり、365日24時間を仕事に向けていた生活スタイルを少しずつ変えてみました。
そうしていると、だんだんとワクワクする気持ちのほうが大きくなって……。
いつしか、「レールを外れてしまうのが怖い」という不安を、「好きなことに挑戦している自分を見てみたい」という好奇心が上回ってしまいました。
振り返ってみると、あの頃の自分は、自分の「好き」を集めていたのだと思います。小さな「好き」を積み重ねていたら、少しだけ勇気が湧いてきたんですね。
不安がゼロだったわけではありませんが、そのタイミングで退職を決意。この先どうなるかは分かりませんでしたが、思い切って挑戦してみることにしました。
—— テレビ朝日を退職した後は、どのようにして花の仕事に転職したのですか?
働く前にイギリスに留学して、花やガーデニングについてインターンで学びました。「花が好き」という思いが、どれだけ本気なのかを確かめたかったんです。
イギリスでのインターンは、想像以上に大変でした。コッツウォルズ地方にあるスードリー城という中世のお城で働いていたのですが、地面にはいつくばって草むしりはするし、広い庭の中を重いホースを持って走り回るし……。
すっぴんで汗をかき、顔にはいつも泥がついていました。身だしなみを整えることが仕事のスタートだったアナウンサーとは、大違いです。
でも、毎日が本当に楽しくて、とても私らしく感じられたんですね。このとき、「花の仕事を、一生の仕事にしたい」と心から思えたことで、決意が固まりました。
イギリスに旅立ってから半年後に帰国したタイミングで、いつか自分のお店を開くことを目標に、自由が丘にある「ブリキのジョーロ」という花屋さんで修業させてもらうことになりました。
文房具屋さんで履歴書を買い、駅前の証明写真ボックスで写真を撮り、面接に向かったところ、「明日から来てください」と。オーナーさんには「自分で食べていけるまで、私が教えてあげる」とまで言ってくれました。
—— 念願だった、花の仕事に就くことができたのですね。
でも、私は本当にポンコツで……。花を束ねるのは下手だし、段ボールの梱包も遅いし、配達をするにもペーパードライバーだし。貢献できることといえば接客と掃除くらいで、1年目は足を引っ張るばかりでした。
また、水仕事で手のあかぎれもひどく、レジでお金のやり取りをするときは、恥ずかしくてすぐに手を引っ込めたくなったこともあります。テレビ局のアナウンサーとはお給料も違うので、以前は気軽に買えていた洋服も、値段を気にして買えなくなった時期もありました。
「好きなことを仕事にした」というと聞こえがいいですが、現実はそれほど甘くなかったのです。
でも、不思議と辞めたいとは思いませんでした。むしろ、毎日が楽しくて、楽しくて。
—— どうして、大変な仕事を楽しめたのでしょうか?
「自分で選んだ」という気持ちが強くあったので、いつも前向きだったんです。
アナウンサーをしていた頃は、「任された仕事を一生懸命に頑張ろう」という、どちらかといえば受け身の姿勢でした。
でも、花屋さんでの仕事は、「この仕事で食べていくためなら、なんでもやろう」と能動的になれました。
他人の物差しではなく、自分の物差しで選んだから、うまくいかないことがあっても、誰かに何かを言われてしまうことがあっても、納得できたのだと思います。
花屋さんに転職してからは、それまでとは違う仕事の楽しさを感じていました。本当にやりたかったことに出会えたからか、「早くお客さんにブーケをつくりたい」と、最寄り駅からお店まで走っていたこともあります。それくらい、仕事が好きだったんです。
仕事を楽しんでいれば、いつかは成長できるもの。私は転職してから3年が経った頃になって、ようやくいろんなことを任せてもらえるようになりました。
接客や仕入れだけでなく、事業計画の立て方まで教えてくれたオーナーには、心からの感謝をしています。
—— 独立を決めたのは、「自分でもやっていける」という見通しが立ったからですか?
そう思えたタイミングと、妊娠した時期が重なったので、「自分のペースで、自分にできる仕事を広げていきたい」と独立しました。
独立後、最初にチャレンジしたのは、花との出会いを増やす活動です。花の魅力を知り、花のある生活を知ってほしいという思いを込めて、「gui」という移動式の花屋をつくりました。花とみなさんとのタッチポイントを増やす活動です。
その後、神宮前に念願の実店舗「NUR」をオープンしました。コロナ禍の影響もあり、家に花を飾る人が増えたので、今度は花をもっと好きになるための場所をつくりたかったんです。
会社を設立してから4年目で、まだまだ難しさを感じていますが、それでも少しずつ、つくりたかった世界に近づけている感覚があります。
—— アナウンサーという注目度の高い仕事を辞め、心からやりたいと思える仕事に転職したことで、前田さんにはどのような変化があったのでしょうか?
どちらも自分にとっては大切な仕事ですが、アナウンサーをしていた頃は、社会軸で生きていたような気がします。周囲から評価されることを意識したり、年齢で自分の生き方を決めていたり、「自分で決める」ということをしてこなかったんです。
ただ、「花の仕事をしたい」と退職してからは、自分軸で生きられるようになりました。特に起業してからは、「私はどうしたいんだっけ?」と自分の中に答えを求める機会が増えたんです。
自分の中に答えを求める生き方は、それはそれで苦労がたくさんあります。
でも、自分で考えて決める分、やりがいや納得感がある。どう生きたいのかさえも自分で決められなかった以前の私より、自分の中に答えを求める今の私のほうが好きです。
—— 前田さんのように、自分にとっての天職を見つけるには、どのようなアクションを取ればいいのでしょうか。
自分の「好き」に、とことん向き合うことだと思います。
社会軸で見る正解と、自分軸で見る正解は違うものです。私のキャリアを振り返ると、「テレビ朝日のアナウンサーを辞めるなんて、もったいない」と思われた方もいたと思います。
でも、自分の感覚は違いました。「もし花の仕事で食べていけたら、それ以上に幸せなことはない」と思っていたんです。もちろん不安はありましたが、今では当時の夢をかなえられています。
正直に言うと、今でもブーケを束ねるのは下手だし、スタッフのみんなに比べると、できないことがたくさんあります。だから、「これが私の天職です」なんて言えないというのが本音です。
でも、大好きな仕事で、この仕事を一生続けたいと思っています。今の私を「天職に出会えている」と表現していいのなら、やっぱり「自分がどうしたいのか」を突き詰めることが大切なのだと思います。
—— これから社会に出る学生や、社会に出てまもない若い世代には、自分らしい仕事に出会えずに悩みを抱えている人がたくさんいます。大好きな仕事に出会えた前田さんから、皆さんに伝えたいことはありますか?
チャレンジに年齢は関係ないと思うので、少しでもやってみたいことがあるなら、迷わず挑戦してみてほしいと思います。
なにも、いきなり大きな挑戦をする必要はありません。私も最初は、花を買ってみたり、花の教室に通ってみたりすることから始めました。小さな「好き」を集めていけば、きっと自分らしい仕事に出会えるはずです。
私にとって働くことは、お金を稼ぐ手段ではなくて、出会ったことのない景色に出会うとか、楽しいことをしてみたいとか、心が躍る瞬間に出会うための大切な時間です。いうなれば、冒険のようなものだと思っています。
きれいごとに聞こえるかもしれませんが、うそ偽りのない本音です。
今の私があるのは、好奇心を頼りに、小さな成功体験を積み重ねてきたからです。
まだ高校生だった頃、司馬遼太郎の『街道をゆく』(朝日新聞出版)を読んだことがきっかけで、モンゴルの星空を自分の目で見に行きました。当時は、受験勉強の真っ盛りです。それでも、どうしても行ってみたい——。親に頼み込みました。
周囲が塾に通い始めるタイミングで、私はモンゴルに行くわけですから、ちょっと変わった選択ですよね。
でも、思い切って自分軸で生きてみたことが、その後のチャレンジの足取りを軽くしてくれました。それ以降、「みんながやってるからといって、正解だとは限らない」と思えたのです。
私も、まだまだやりたいことがたくさんあります。おばあちゃんになるまでに、都会の暮らしが花と緑であふれる世界をつくるのが、今の目標です。そこにたどり着く方法はわからないけれど、これまでの経験があるからこそ、きっと実現できると信じています。
「一緒にチャレンジしましょう」というのも変ですが、私もみなさんと同じ気持ちです。まずは小さなことからでも、アクションを起こしてみてください。
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取材・文:オバラ ミツフミ、編集:伊藤健吾、デザイン:石丸恵理、撮影:遠藤素子