編集者は「人間らしさ」をつくる仕事。成長に必要な5つのスキルとは
2022年2月14日(月)
編集者とは、書籍や雑誌、Webメディアなどに掲載される記事など、「テキストを中心とするコンテンツを形にする人」だと考えています。
かつては出版社や編集プロダクションが主な“生息地”でしたが、近年はWeb、スマホアプリ上でコンテンツを提供する媒体も増えています。それだけに、勤め先、働き方の幅は広がっています。
「文章を書くのが好きだから」という理由で編集者を目指す人もいますが、「形にする」のが職務なので、必ずしも文章力に秀でている必要はありません。
コンテンツをつくる際は、テキストを書くライターをアサインすることが大半で、ほかにも写真を撮るフォトグラファーや、レイアウトやビジュアルをつくるデザイナーなど、専門分野を持ったプロフェッショナルがそれぞれの分野を担当します。
まず、つくりたいものの構想を描いたうえで、役割に対して適切な人物を割り当ててその構想を伝え、締め切りに合わせて進行管理をし、コンテンツの質を担保することが主務なので、例えるなら現場監督のような仕事内容だといえます。
スポーツにたとえるなら、編集者が監督で、ライターが選手。編集者がライターを兼ねることはありますが、本来的には異なる職業です。
ライターはあくまでテキストという一部分のクオリティーに責任を持つ仕事なのに対し、編集者はコンテンツ全体に責任を持つ仕事です。
では、どうして編集者がライターを兼ねるのかというと、人材不足やコストの問題があるのではないかと思っています。
編集業界は人材不足なことが多いので、編集者がなんらかの職業を兼ねない限り、円滑に業務を進められないことがよくあるんです。費用対効果の問題で、全ての職種に専任の担当者を用意できないこともあります。
そのようなときは、多くの場合、編集者がライターを兼務します。僕もそうなのですが、編集者には、もともと文章を読んだり、書いたりすることが好きな人が多いので、たまたま職能を満たせるケースがよくあるんです。

編集者とライターを兼ねることもありますし、ライターとして仕事をすることもあります。
編集を担当するコンテンツであっても、「このテーマの原稿は自分で書きたい」「このジャンルは詳しいから自分で書いた方が良さそうだ」と思うことがあります。
そういうときは、コンテンツそのものはもちろん、書き手としての責任も持ち、2つの職種を兼務している形です。
編集者として働くには、大きく5つのスキルが求められると思います。
まずは、つくりたいコンテンツの構想を描き、一緒にものをつくる人にそれを伝える力です。
もちろんライターやフォトグラファーもそれぞれ書きたいものや撮りたいものがあり、それは十二分に尊重すべきですが、全体としてどんなコンテンツに仕上げたいのかを考えるのは編集者の役割です。
責任を持ってそれを決め、都度判断していくことをしないならば、編集者の存在意義はないとすら思っています。
続いて、「批判的な視点」です。制作途中のコンテンツについて、「本当に面白いのか?」「誰かの役に立つのか?」と、読者の視点に立って想像する必要があります。
自分が面白いと思ってつくったものでも、他人もそう思うとは限りません。批判的な視点でアウトプットを見る力がなければ、世の中に受け入れられるコンテンツが生まれる可能性は非常に低いんです。
次に、「人を動かす能力」です。一緒に働くメンバーが「最大限に能力を発揮する」ための支援ができなければ、編集者としての職能を果たすことはできません。
「編集者は現場監督のような仕事」と言いましたが、つまり、最高のアウトプットをするためならなんでもやるということです。
日程の調整や段取りの整理はもちろん、ときにメンバーをモチベートしたり、やり直しを要求したり。コンテンツのクオリティーに責任を持つためには、地味な作業が必須ですし、耳が痛いことを言わなければいけないこともあります。
翻って、メンバーへのリスペクトが求められる仕事だと思っています。リスペクトがなければ、下請けに無理な労働を強いるような関係性になってしまい、アウトプットの質が下がるだけでなく、誰も幸せになれませんから。

続いて、「企画力」です。もともと存在するテーマや特集に対して企画を考えることもあれば、そもそも新しい企画を考える機会も多い仕事なので、企画をつくる能力は編集者ができるだけ持っておいたほうがよいスキルだと考えています。
企画力の根底にあるのは、日々の思考やインプットです。人に会ったり、本を読んだり、色々な場所に行ったり。
さまざまな事象に対して好奇心を持ちながら、自分の頭の中で「なぜ?」や「なに?」などを問い、「この話をあの人に書いてもらったら(聞いたら)面白そうだ」といったように、情報と有機的に接続する習慣ができると、自然と企画が生まれていきます。
そもそも、インプットが不足すると、コンテンツを批判的に見るために必要な比較対象を自分の中に持てません。ですから、日々のインプットなくして編集者の仕事は成り立たないとも言えるかもしれません。
インプットの質を深めるという意味では、日常のライフイベントに真摯に向き合うという手段もあります。必ずしも、世界を旅するような、刺激的なインプットをする必要はありません。
例えば、自分が親族の介護をしていた場合、実際に介護を経験したからこその思いや疑問が生まれると思います。大変という一言では片付けられないかもしれないし、実際に介護を経験したからこそ、見えてくる景色があるはずです。
あるテーマに対して深く入り込むと、それをしていない人とでは、やはり理解度が違ってきます。それは企画を立てるうえでの武器になりますから、世間を見る目と、世間の声を聞く耳を持って、自分なりの問いや仮説を練り上げていくことが必須だと思います。

最後に、コンテンツに対する「圧倒的な熱量」です。構想力、批判的視点、人を動かす能力、企画力、と4つの要素を挙げてきましたが、やはり最後は熱量に尽きます。
たいていの場合、編集者がつくるコンテンツは、水や食料のように、「いま読まないと(物理的に)生きていけない」というタイプのものではありません。誤解を恐れずに言えば、必ずしも存在しなくていい「不要不急なもの」かもしれません。
でも、淡々と衣食住を満たし続けるだけの生活を送っていたら、ストレスで耐えられなくなってしまうはず。エンターテインメントがない生活は退屈ですし、教養を身に付けられない人生は息苦しい。
過去に編集をお手伝いしたコンテンツで、哲学者の國分功一郎さんが、「たまに十二分に食べたり、着飾ったりと、浪費の贅沢があってはじめて、人間は人間らしく生きることができる。そして嗜好品は、まさしく浪費の対象の一つです。生存に必要なわけではないけれど、生きていることの中に楽しみを導入するときに求められるものが、嗜好品だと思います」とおっしゃっていました。
編集者がつくるコンテンツとは、まさに國分さんが言う「嗜好品」だと思っています。生存に必要なわけではないけれど、人間らしく生きるためには必要なものなんです。
じゃあどうすれば、不要不急なものを手に取ってもらえるのか。
もちろんマーケティングやコピーライティングなども大切ですが、僕は何より「アウトプットからほとばしる熱量」の有無が大事だと思っています。
適当につくられたコンテンツと、どうしても届けたいという思いを持ってつくられたコンテンツは、思いの差がアウトプットに表れます。そして、適当につくられたコンテンツは、やはり手に取ってもらえないか、手に取ってもらえても心を動かせません。
「こんな情報を届けたい」とか、「この人の話を聞いてほしい」とか、作り手から生まれる熱量は、コンテンツを通じて読者に伝播します。
僕の経験からいって、これは間違いない。熱量があるから良いものがつくれるし、熱量があるから届くんです。

仮に届いたとしても、一過性だと思います。熱狂的なファンは生まれず、それこそ「不要不急なもの」として、いずれ手に取ってもらえなくなるはずです。
また、「何がなんでもいいものをつくりたい」という熱量があれば、すでに説明した構想力、批判的視点、人を動かす能力、企画力は身に付くと思います。いいものをつくるにはそれらの要素が必須なので、結局できるようになるんです。
編集者によっては、企画は得意だけれど、人を動かすのが苦手な人もいます。もちろん、その逆も然りです。レーダーチャートの全てを満たすのは簡単なことではなく、編集者それぞれにスタイルがあります。
ただ、コンテンツに対する熱量だけは、失ってはいけないと思います。それが欠けてしまうと、編集者として活躍できるとは思えません。自戒も込めて言えば、熱量がないならば、コンテンツづくりなんてすべきじゃないとすら思います。
少なくとも僕が尊敬する編集者のみなさんは、偏愛とも言える執着心を持って、コンテンツを制作されています。
間違いなく、編集者として生きる喜びです。自分が手がけたコンテンツやそれへの反応を見かけたり、それに対してポジティブな感想をもらったりすると、「この仕事をやっていてよかった」と心からうれしくなります。
ただ、それだけ喜べるのも、やはり全力投球したからこそ。特に、「自分だからつくれたコンテンツ」でそれを実現できたときは、感動もひとしおです。
やりきれなかったコンテンツで評価してもらえたとしても、やはり心からは喜べません。だからこそ、まずは自分が胸を張れるコンテンツをつくるのが最重要課題なんだと思います。

いつも大変ですよ(笑)。
上には上がいるので、インプットやアウトプットをすればするほど、実力不足を痛感します。実力不足を痛感しながら制作したコンテンツを世に出すことも、この仕事につきまとう苦しさの一つです。
ただ、常に全力でコンテンツに向き合っていると、まれに“渾身の一作”を生み出せることもあります。
ライターさんやフォトグラファーさんとコラボレーションし、「これ以上ない」と思えるコンテンツをつくれた瞬間には、生みの苦しみを補って余りある達成感があります。
苦しさを伴うこの仕事を楽しみながら続けられているのは、その達成感が中毒症状になっているからだと思います。なんというか、ドーパミンが出るんですよね。
きっと僕以外の編集者の方にも、そういう人は多い気がします。
あまり業界の未来予測には興味がないのですが、やはり僕がつくっているような、比較的長文のテキストコンテンツに対するニーズは減少していくと思います。
ブログサービスの後にTwitterが流行し、YouTubeの後にTikTokが人気になったように、世の中のコンテンツは細切れ化しています。
Netflixですら倍速再生で観られる時代に、長いテキストなんて、反時代的も良いところ。この流れは今後も続くでしょうから、長い読み物の市場がシュリンクしていく流れは、ある程度避けられないでしょう。
ただ、市場が縮小することと、編集者の価値が下がることは、必ずしも同義ではないと思います。
人間が人間である以上、よいコンテンツに触れたいという欲望は消えないと僕は思っています。つまり、優れたコンテンツを生み出す能力、つまり編集のスキルには価値が残り続けるはずです。
もしかしたら、それが動画コンテンツをつくる際に生かされるかもしれませんし、企業やサービスのブランディングに役立つかもしれません。

とはいえ、泥臭い仕事が多い職業ですし、継続的な学習を求められる職業なので、「可能性がある」という理由だけで選択することはお勧めしません。
僕も、もともとはなんとなくイメージだけで編集者に興味を持っていたクチですが、今も昔と変わらず人気の職業だと聞きました。
著名人に話が聞けたり、自分の名前で仕事ができたりするので、おそらくキラキラしたイメージを持っている人も少なくないと思います。
しかし、編集を生業にする僕からすると、そうしたイメージとはほど遠い世界だと感じています。
あくまで「テキストを中心とするコンテンツを形にする人」ですから、日夜ドキュメントツールや資料に向き合っていますし、調整や段取りに多くの時間を割く泥臭い仕事です。イメージとしては、著名人に話を聞いている時間なんて、全業務の数%もありません。
数年前、キラキラとした側面ばかりが注目されてしまい、編集者やライターを目指す人が一気に増えた時期がありました。
しかし、実態と乖離したイメージが先行していたために、キャリアが熟す前にネガティブなジョブチェンジをした人がたくさんいたと聞きます。
人生で目にするすべての景色、例えばここにあるペットボトルウォーターでさえアウトプットにつなげられる刺激的な職業ですが、そうしたオンとオフの境目がない毎日は、誰にでも望ましいものではないはずです。

実際、それゆえのしんどさもあります。常にアンテナを張っていなければいけないせいか、知らず知らずのうちに疲れが蓄積し、体調を崩してしまう人もいる。
コンテンツづくりが大好きな僕だって、たまに疲れがたまって、「仕事はもちろん、何にも読みたくも観たくもない。とにかく頭をからっぽにしたい」という気分になることもあります。
メディア産業で働く一人として、こうした真実はしっかり伝えなければいけないと思っています。
そういった人に素養がある側面もありますが、それだけで続けられる職業ではないと思っています。
また、編集という言葉を「編んで集める」と広義で捉えると、会議をファシリテーションすることや、オフィスのレイアウトを考えること、こうしてインタビューをしていただいている時間そのものも含まれるという考え方があると思います。
実際、編集という言葉が広がり、「これも編集だよね」という会話をよく耳にするようになりました。
そうやって編集の仕事が身近になるのはうれしいことですが、やはり現実的には、編集者は、「テキストを中心とするコンテンツを形にする」のが仕事です。
誰もが「編んで集める」という普遍的な営みの側にいますが、編集者として食べていくのであれば、先に話した5つのスキルのように、具体的な能力を磨き続けることをやめてはいけないと思います。
僕のように、なにかをつくって形にするプロセスに喜びを感じられる人にとっては、天職になり得る可能性があります。
これまでに触れてきたコンテンツの量が多いに越したことはありませんが、本を読むのとつくるのでは、まったくの別物です。
ほとんど本を読まない人でも、例えばずっとバンド活動を続けてきた人とか、文化祭をまとめ上げるのが楽しかった人とか、プロセスそのものに好奇心を突き動かされる人には向いている職業だと思います。
また、誰にも負けない関心領域を持っている人も、編集者としての素養があると感じています。偏愛は編集者の武器であり、熱量あふれるコンテンツづくりの出発点ですから。
比較対象を持っていないという点ではマイナスになる可能性もありますが、熱量があればなんとかなるし、きっとそういう人たちが業界を盛り上げていくんだと思います。
簡単な仕事ではないし、市場がシュリンクしていくことを考えれば、お金を稼ぎやすい仕事でもありません。でも、やっぱり楽しい仕事です。
人間が人間らしく生きていくために必要なものをつくっていると自負していますし、僕はなんだかんだこの仕事がとても好きです。同じような気持ちで、この仕事に取り組む人が一人でも増えたら、素直にとてもうれしいですね。
僕のつたない話が、これから編集者を目指す人にとって、少しでもキャリアの参考になっていれば幸いです。

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取材・文:オバラ ミツフミ、編集:伊藤健吾、デザイン:國弘朋佳、撮影:遠藤素子