大学3年生になった途端、いきなり突きつけられる「就活」の2文字。周りに流されるままにとりあえず髪を黒染めしてエントリーシートを書き始めたが、「やらされている感」が強くどうも身が入らない──。
そもそも、なぜ私たちは働くのか?そして、就活のゴールはどこにあるのか?
若者たちが自分なりの解を導くためのヒントを提示。価値観や得意を活かし、多様なキャリアを描いてきた人たちの経験を深掘り、自らの手で人生を彩るポイントをひも解いていく。
経営コンサルタント兼起業家の成澤俊輔(なりさわ・しゅんすけ)さんは、3歳の時に徐々に視力を失う難病・網膜色素変性症に診断された。22歳でほとんどの視野を失い、現在は光のみを感じることができる。
約8年半事務局長と理事長を務めた、就労困難者への支援を行うNPO法人FDA(Future Dream Achievement)は2017年に「日本でいちばん大切にしたい会社大賞実行委員会特別賞」を受賞。現在は毎月60〜80社の経営コンサルを行うなど、幅広い活躍を見せる成澤さんだが、障がいが理由で医師の道を諦め、就活では100社以上で不合格となるなど、文字通り“暗中模索”で現在までの道のりをたどってきたという。
そんな彼は、いかにして経営という天職に出会い、仕事で人生を豊かなものにしてきたのか。
「条件付きの愛からの解放」「失敗が大前提」といったキーワードをもとに、波乱の人生から導かれた仕事論を聞く。
仕事とは、相手と出会い、自分の存在を確かめること。僕はそう定義しています。
僕は36年間、ほとんど爪を切ったことがありません。なぜなら、かんだりいじったりし続けているから。目の見えない僕は、自分が本当にここに存在しているのか、物理的にしか確認できないんです。
そんな僕が見つけた自分の“居場所”こそ、仕事でした。経営の仕事を通じて多くの人とつながり、自分が今ここに在ることの喜びを実感できています。
今でこそ「世界一明るい視覚障がい者」をうたっていますが、自分の病気を何度も呪いましたし、面白くないこともたくさん経験しました。文字通り“暗中模索”で歩んできた人生です。
そもそも、18歳までが暗黒時代でした。漫画の回し読みや、友達の家でのゲーム大会、ひと夏をささげる部活動。多くの人が当たり前に経験するであろう、仲間と紡ぐ青春の思い出は、一つたりとも出てきません。
目が見えないことでいじめられるのが怖かったので、見えるふりをするみたいに、いろんなことをごまかす癖も自然と身についてしまいました。
勉強しか取りえのなかった僕は、医者を目指そうとしましたが、「お前の目では厳しいぞ」と皮膚科医の父に止められました。結局、センター試験がうまくいかず、志望度の低かった福祉系の大学に進学することになります。
受験の悔しさが残っていたので、入学時には「首席で卒業して、国家資格も2、3個取ってやる!」と意気込んでいました。でもいざ講義に出てみれば、40〜50代くらいの健常者の先生たちが「障がい者にはこんな大変な歴史があるんです、障がい者は大変なんですよ」って授業していて。
「そんなん、当事者の僕が一番分かっとるわ」と腹が立ちました。
そして周りはアイス食べてゲームしながらぼさっと授業を受けている。「ここに何しに来たんだろ」と、自分が大学に通う意義が見出せなくなりました。
しかも必修の単位を落としてしまい、唯一の武器だった勉強さえも失った僕は、家に引きこもりはじめます。
いろいろな理由をこじつけ、両親にも恋人にも大学に行っていないことを2年間も隠し続けました。九州の両親が家に遊びに来た時は「おう、授業行ってくるわ」とキャンパスに向かうふりをして、近所のマクドの一番端っこの席でコーヒー片手に身を潜めていました。
どうにか隠し通してきましたが、とうとう社会福祉士の国家試験当日を迎えてしまいます。
試験当日、本来なら試験場にいるはずの僕は、家にこもって「裏切ってごめんなさい」という件名のメールを、書いては消し、書いては消し。なんとか書き上げ、試験の時間が終わるくらいの夕方に、両親たちに一斉送信しました。
もう、何を言われても仕方あるまい。そう思っていました。
でも、ふたを開けてみれば、ほとんどの人が誰も僕を責めませんでした。むしろ「気づいてあげられなくてごめんね」と。
この瞬間、気がついたのです。僕は初めて、自分で人生を選択できたことに。
学校でも何一つ楽しいことができなくて、勉強にすがり付いて生きてきた僕が必修を落とし、もう何も残っていないと感じたのに。これまでの嘘を告白することで、僕は「条件付きの愛」から解放され、そのままの僕で愛されていたことを知れたのです。
こうして、僕はやっと、間違えることのできる人生を歩み始めました。
ただ、結局僕は、2回目の留年が確定したときもまた嘘をつき、親から特大の雷を落とされることになるのですが(笑)。