【共感】盲目のコンサルタントが見つけた「仕事」という居場所

2021年10月20日(水)

文字通り“暗中模索”の人生

仕事とは、相手と出会い、自分の存在を確かめること。僕はそう定義しています。

僕は36年間、ほとんど爪を切ったことがありません。なぜなら、かんだりいじったりし続けているから。目の見えない僕は、自分が本当にここに存在しているのか、物理的にしか確認できないんです。

そんな僕が見つけた自分の“居場所”こそ、仕事でした。経営の仕事を通じて多くの人とつながり、自分が今ここに在ることの喜びを実感できています。

今でこそ「世界一明るい視覚障がい者」をうたっていますが、自分の病気を何度も呪いましたし、面白くないこともたくさん経験しました。文字通り“暗中模索”で歩んできた人生です。

そもそも、18歳までが暗黒時代でした。漫画の回し読みや、友達の家でのゲーム大会、ひと夏をささげる部活動。多くの人が当たり前に経験するであろう、仲間と紡ぐ青春の思い出は、一つたりとも出てきません。

目が見えないことでいじめられるのが怖かったので、見えるふりをするみたいに、いろんなことをごまかす癖も自然と身についてしまいました。

勉強しか取りえのなかった僕は、医者を目指そうとしましたが、「お前の目では厳しいぞ」と皮膚科医の父に止められました。結局、センター試験がうまくいかず、志望度の低かった福祉系の大学に進学することになります。

Photo:iStock / FotoDuets

受験の悔しさが残っていたので、入学時には「首席で卒業して、国家資格も2、3個取ってやる!」と意気込んでいました。でもいざ講義に出てみれば、40〜50代くらいの健常者の先生たちが「障がい者にはこんな大変な歴史があるんです、障がい者は大変なんですよ」って授業していて。

「そんなん、当事者の僕が一番分かっとるわ」と腹が立ちました。

そして周りはアイス食べてゲームしながらぼさっと授業を受けている。「ここに何しに来たんだろ」と、自分が大学に通う意義が見出せなくなりました。

しかも必修の単位を落としてしまい、唯一の武器だった勉強さえも失った僕は、家に引きこもりはじめます。

いろいろな理由をこじつけ、両親にも恋人にも大学に行っていないことを2年間も隠し続けました。九州の両親が家に遊びに来た時は「おう、授業行ってくるわ」とキャンパスに向かうふりをして、近所のマクドの一番端っこの席でコーヒー片手に身を潜めていました。

どうにか隠し通してきましたが、とうとう社会福祉士の国家試験当日を迎えてしまいます。

試験当日、本来なら試験場にいるはずの僕は、家にこもって「裏切ってごめんなさい」という件名のメールを、書いては消し、書いては消し。なんとか書き上げ、試験の時間が終わるくらいの夕方に、両親たちに一斉送信しました。

もう、何を言われても仕方あるまい。そう思っていました。

でも、ふたを開けてみれば、ほとんどの人が誰も僕を責めませんでした。むしろ「気づいてあげられなくてごめんね」と。

この瞬間、気がついたのです。僕は初めて、自分で人生を選択できたことに。

学校でも何一つ楽しいことができなくて、勉強にすがり付いて生きてきた僕が必修を落とし、もう何も残っていないと感じたのに。これまでの嘘を告白することで、僕は「条件付きの愛」から解放され、そのままの僕で愛されていたことを知れたのです。

こうして、僕はやっと、間違えることのできる人生を歩み始めました。

ただ、結局僕は、2回目の留年が確定したときもまた嘘をつき、親から特大の雷を落とされることになるのですが(笑)。

僕にとっての“青春”はインターン

僕の人生最大の転機は、インターンでした。

所属していた学生団体の先輩がきっかけで、ジェイブレインという人材系ベンチャー企業で2年間インターンをすることになります。

業務内容はテレアポから飛び込み営業まで、何でも。初めてのことばかりで、もちろん大変でした。でもそれ以上に、僕が僕のままで輝ける喜びが、そこにはありました。

小中高では決まり事の中でどれだけうまくこなせるかが求められますが、ベンチャーは基本ノールール。「目は見えないかもしれないけど、ちょっとはしゃべれそうだな。一芸使って稼いでこい!」と気さくに送り出してくれました。

ただ、資料も作れないし、お土産を買うにも選ぶのに一苦労。僕が人と紡げるものは言葉だけだったので、自然と話術が磨かれていきました。

モチベーションの根底にあったのは、人生の前半で枯渇していた対話が、思う存分にできる喜びです。

Photo:iStock/psisa

部活やゲームができなかった僕も、上司や同僚と仕事を通じてつながれる。僕の電話一本で誰かの雇用を作り出せる。仲間と同じ目的のために動き、何かを達成することで、青春を取り戻すようなワクワクを感じていました。

また、周囲の人たちが、目が見えないことを変に腫れ物扱いせず、一つのオリジナリティとして尊重してくれたことにも救われました。

例えば、上司と営業に行く時は白杖を使っていなかったのですが、営業先のオフィスに入った途端、上司から「ほら、なるっち、商売道具出さないと」なんて言ってもらったりして。

だって、白杖ついてたら営業先も邪険に扱いづらいじゃないですか。僕も「ただでさえ大変な人生を送ってるんだから、ちょっとくらいネタに使わせてくれよ」くらいのスタンスで挑んでました。

そして、仕事で多くの経営者に会ううちに、ある気づきを得ました。それは、僕と経営者は「答えのない苦しみ」で分かり合えることです。

僕にとって「移動が大変」「字が書けない」などは枝葉の悩みで、根幹にある「なんで?」という終わりなき問いが頭の中に絶えず付き従っています。

一方、経営者たちも「なんであの時あの人は辞めたんだろう」「なんで事業が大変な時に限ってコロナになっちゃうんだろう」と、絶え間なく起こるハプニングに悩み続けています。

そんな彼らは、障がいを持ちながら前に進もうとする僕の姿を見て「共感できる」と言いました。

トラブルやハプニングに満ちた僕の人生に、初めて価値を与えてもらった瞬間でした。

僕は仕事の中に、人生で初めての“居場所”を見つけることができたのです。

トイレの壁を埋めた不合格通知

インターン自体は充実していましたが、僕は悩んだ揚げ句就職活動をすることにしました。ジェイブレインが僕の性に合っているのも分かっていたけど、このままぬるっと入ってしまうのは楽だし、何だか「逃げ」だなと感じたのです。

自己分析をした結果、「人」「縁」「感性」が僕の人生のテーマだと気づいた僕は、ウエディングプランナーやユナイテッドアローズ、サマンサタバサなどのショップ店員を目指しました。感性に訴えて、人と人をつなげる、ピッタリな仕事だなと思って。

正直言って、やっぱり就活はめちゃくちゃしんどかったです。

まず、面接先に行くだけでひと苦労。基本的に、初めて行く場所はたどり着けるかどうか不安で不安で仕方ありません。

だからわざわざ最寄りのひと駅前で降りて、タクシーを呼びます。オフィスの前に着いたら、次は運転手さんに「すみません、オフィスの入り口まで連れて行ってもらえませんか」と頼みます。僕にとっては、目的地までのラストワンマイルが永遠なんです。

Photo:iStock / VTT Studio

やっとたどり着いたかと思えば、面接では「目が見えないのに店舗勤務はちょっと厳しいかな……障害者雇用枠でバックオフィスなら……」と言われる。

結局100社以上落ちました。悔しかったので、不合格通知を受け取るたびに家のトイレの壁に貼っていきました。用を足すたびに、壁一面を埋めた「不合格」の文字がいや応なく目に飛び込んできます。そうして、反骨精神を奮い立たせていました。

「成澤俊輔を支える会」というメーリス(メーリングリスト)を作って、友人たちにご飯をおごる代わりに就活や外出を手伝ってもらう、なんてこともありました。

いろいろ工夫して、なんとか内定はいくつかもらえました。でも結局、第一志望だった結婚式プロデュースの企業は最終面接で落ちました。

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そんな折に、ジェイブレインの社長に「お前、うちで働く件、どうなったの?」と聞かれて。気づいたら「働かせてください」と反射的に答えていました。親に就職活動で心配をかけてたこともあったし、何よりもやはり、インターンが楽しかったのです。

次の週、社長と握手を交わし、内定が決まりました。

あの時、本命の最終面接で落ちなければ、ジェイブレインには確実に行かず、内定の出た企業で何となく働いていたんだろうと思います。

こうして僕は、ジェイブレインで晴れて社員として働き始めました。

「1人で生きるのはもうやめたら?」

ところが、僕はインターンを2年間続けたジェイブレインを、正社員として入社後4カ月でを辞めました。社員とインターンでは勝手が違ったのです。

インターンの時は「学生だけどやるじゃん」ともてはやされていたけど、社員になった途端、マネジメントも厳しくなり、どこか窮屈になりました。

しかも、他の同僚は、お茶くみや飲み会幹事など、新人の仕事を淡々とこなします。でも目の見えない僕にはうまくできません。「他の新入社員と一緒の扱いにしてください」と上司に伝えた僕の自業自得ですが、悔しくて仕方ありませんでした。

焦った僕は「自分のできることで成果を出さねば」と、1日16時間くらい働きづめになりました。それでも仕事が追いつかなくて、両親にテレアポリストの作成を手伝ってもらっていたくらいです。気がつけば、いつも銀座一丁目駅のホームのベンチで爆睡していました。

でも、ある日突然、布団から起き上がれなくなりました。診断は過労による鬱。

Photo:iStock / filadendron

担当医にこう言われました。

「お前は慣れと経験と勘とキャラで生きてきた。でもそろそろ立ち止まって、視覚障がい者用の訓練を受ける時なんじゃないか?」

ジェイブレインを離れるのは苦痛でした。入社倍率4000倍の人気企業で働くことなんて、もう二度とできないと思っていたから。やっとつかみかけた幸せを手放すのが悔しくて、退職するその日まで、社章の入ったバッジは手放せませんでした。

社会のどこにも所属せず、訓練所に通う毎日は憂鬱でした。

点字の読み方や白杖の使い方を教わるばかりで、日々の景色は大して変わらない。周囲にはじいちゃんばあちゃんしかおらず、話はてんで合わない。

「なんで人生ノリノリの時に、こんな場所にいなきゃいけないんだ」と、モヤモヤが募りました。

でも、ここで生きるうえで大切なことも教わりました。杖やパソコンの使い方を覚えて、1人で歩けることも大事だけど、人に肩を借りながら歩くのも手だ、って。

止まることが怖くて、常に何か理由を求めて前のめりに生きてきましたが、ずっと僕は誰かを頼ることから逃げていたんですよね。目的や意味の呪縛から解かれ、考え方が柔軟になっていきました。

訓練所に通う傍ら、フリーランスで経営コンサルやイベントプロデュースの仕事も少しずつ始めていたのですが、ある日、電話がかかってきました。「よかったらうちで働かないか?そろそろ1人で働くのやめなよ」と。

のちに僕が理事長を務める、NPO法人FDAの経営責任者からのヘッドハンティングでした。事務局長からキャリアをスタートし、経営再建に奔走することになります。

気がついたら約8年半もFDAに在籍し、300社以上の障がい者雇用を支援していました。

失敗しても成功しても、自分は自分

多くの就労困難者を支援してきて思うのは、やはり仕事は「最高の処方箋」だということ。孤独な世界に閉じ込められた人に、生きるうえで最も必要な“居場所”と“出番”を作ることができるからです。

そして僕も、仕事によって救われたうちの1人です。

僕は現在、毎月約60〜80社の「経営者の伴走」をしています。経営者と対話しては悩みを整理し、捉え直しているのです。

もし僕がインターンで経営者たちに出会わなければ、自分の身に日々起こるトラブルやハプニングをただの不幸として孤独に抱え込み続けていたかもしれない。でも僕は今、それらを「どうにもならないことに慣れている」という圧倒的なオリジナリティに変え、誰かの力になることができています。

これからも、僕は自分の人生にヒントを与えてくれた経営者たちのために、生きていきたいと考えています。

僕の経験から就活生の皆さんに言えるのは「トライ&エラーからしか、自分に合う仕事は見えてこない」ということです。医者になれなくて、大学が嫌いになって、親に嘘をつき続けて、就活落ちまくってないと、今の僕はここにいませんから。

だから、あなたがもしやりたいことが見つかっていないなら、試行回数が少ないだけかもしれません。

いっぱいいろいろなことに取り組んでみると、そのぶん失敗するし、壁にぶつかって立ち止まります。でも、当然ですが、「失敗が大前提」。だって、イチローでさえ打率3割なんですから。

それでも力尽きそうになったら、いつでも立ち返れる原点を作っておくといいかもしれません。好きな本でも、初めて給料を引き出したATMの前でも、何でも構いません。僕にとっては、ジェイブレイン本社のあった銀座。新たな一歩を踏み出した時の、しゃんとした気持ちを思い出させてくれる場所になっています。

そして、何より一つ、揺るぎない事実があります。

あなたがどんな成功をしようと、失敗をしようと、どんな肩書を得ようと、失おうと、何者でもないあなたを受け入れてくれる人が必ずいるということです。

自分の進むべき道を考えるうえで、あなたのためにも、そしてあなたを大切に思う人のためにも、これだけは絶対に忘れないでいてください。

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取材・編集:佐藤留美、文:小原由子、デザイン:國弘朋佳、撮影:遠藤素子