【鷹鳥屋明】社風の不一致、2社の解散。ある社会人の数奇なキャリア

2021年7月16日(金)

中東で一番有名な日本人に

—— 普段から、アラブの伝統衣装を着て仕事をしているのですか?

アカツキは服装が自由なので、普段の仕事はもちろん、商談もこの衣装です。自宅のクローゼットには、60着の衣装があります。

—— 中東地域とは、いつからかかわりを持っているのでしょうか?

社会人5年目に、外務省とサウジアラビア政府が主催するプログラム「日本・サウジアラビア青年交流団」の募集をTwitterで見つけ、参加したことがきっかけです。 

当時は日立製作所で財務、経営企画の仕事をしていて、中東とはかかわりのない業務を担当していました。 

大学は、中東ではなく中国史とトルコ史が専攻の、歴史オタクです。海外留学生が多くいる剣術部に所属していたこともあり、普通の人よりも異文化に接する機会が多かったのです。

そうした背景もあり、知人の在サウジ日本大使館の大使の娘さんから「サウジアラビアは面白い」という話を聞くたびに、中東への関心が高まっていました。

つまり、もともと興味を持っていたところに、偶然にも「日本・サウジアラビア青年交流団」という形で機会が巡ってきたわけです。

会社に無理を言って、2週間の有給休暇を取得し、サウジアラビアに飛び立ちました。それからというもの、中東にどっぷりとハマってしまって。

—— どのような点に魅力を感じたのですか?

まず大きな魅力を感じたのは、お酒を飲まない文化です。

私は体質上、ほとんどお酒が飲めません。いわゆる、下戸です。

しかし、古い体質だった会社では飲みの席を仕事、もしくはその延長の一環として扱う文化があり、そのことで入社してからずっと悩まされていました。

そのため、お酒を飲まずにビジネスや人付き合いを進められる中東の環境は、私にとって天国だったのです。

2つ目は、現地の人たちの性格が、自分に合っていたこと。

私は九州の大分県出身で、竹を割ったような分かりやすい性格をしています。お酒なしでも本音を言い合えるアラブの人たちとは、ウマが合いました。

—— その後、中東で有名になったきっかけは何だったのでしょうか?

交流プログラムが終了してからも、外務省で担当された方々との付き合いは続いており、そこでの出会いが今につながっています。

大使館などのパーティーがあった際に、民族衣装を着て参加を続けていました。

そして、パーティーで出会ったバーレーンの副大使と、サウジアラビアのインスタグラマーから「君は面白いから絶対SNSをやったほうがいい」と勧められたのをきっかけに、発信を始めました。

以来、自分も大好きな漫画やアニメ、エンターテインメントの話をアラビア語で発信し続けることでフォロワーが増え、いつしか「中東で有名な日本人」として認識されるようになりました。現在、Instagramのフォロワーは7万人近くいます。

カタールのビジネスパーソンとの会食風景(写真:本人提供)

—— 中東関連のビジネスをするようになったのは、それがきっかけで?

当時の日立製作所では、昇降機の経営企画部門や、海外向け案件の経営管理部門で働いていました。戦略と戦術を俯瞰して見ることができた経験は、今でもビジネスパーソンとしての根幹になっています。

ただ、その時は中東とかかわりのある仕事ではありませんでした。せっかくなら中東で得たリアルな知識と人脈を生かして、仕事をしていきたいと考えるようになりました。

唯一無二の“タグ”が武器になる

—— そうした背景があり、転職したと。

中東での影響力を見込まれて、とある商社からオファーをいただき、転職しました。

しかし、中東とビジネスができると聞いて受けたオファーだったはずが、蓋を開けてみれば東南アジア担当の営業でした。

当然「話が違う!」と思いましたが、中東以外の産油国と東南アジアの国々について学べたのは良い経験だったと思います。

ただこの時代は、私にとってはあまり思い出したくないことが多い時期で……。

仕事はともかく、社風が全く合わず、つらい毎日を過ごしていました。

Photo : iStock / domoyega

—— どんなところが、合わなかったのでしょうか?

こちらも、お酒が飲めないことがネックでした。

夜の付き合いが多く、飲めない体質であっても無理やりお酒を飲まされて、大変な目にあったこともあります。体育会系のノリが自分に合わないことに加え、長時間労働にも苦労していました。

疑問点があっても「俺たちは商社パーソンだから」の一言であらゆる思考を停止するところも納得できていませんでした。

それでも、「自分が間違っているかもしれない」とあれこれトライしながら、1年近く続けてみたんです。

そんなときに、自分も職場の影響を受けたためか、知人から「お前、以前よりも傲慢になったな」と言われてしまいます。

職場のノリに自分を合わせようと努力しているうちに、本来の自分を見失いかけていたことに、大きなショックを受けました。

労働時間が多く、精神的にもつらい。どちらかだけなら耐えられますが、ダブルで重なることには耐えられなかった。

「これ以上無理をしたら、自分が壊れてしまう」と危機感を覚え、退職を決意しました。

—— 退職後は、再び会社員の道へ?

いえ、すぐに企業へ転職したわけではなく、一度パレスチナに旅立ちました。

外務省が行っているガザ戦争の復興支援協力で、要員の募集を紹介されて、二つ返事で快諾したのです。

紛争地帯であるガザ地区のNGOに参加し、支援拠点を立ち上げ、医薬品・生活必需品・食品・衣料品など、あらゆる物資を現地周辺で調達し、難民に届けていました。

パレスチナの小学校で日本刀演武をしている様子(写真:本人提供)

パレスチナでは、自身の死生観が変わる経験をしました。

一緒にお茶を飲んで仲良くしていた人が1週間後に亡くなったり、投獄されたり。私自身も、街中でデモ隊と鎮圧部隊の衝突に巻き込まれています。

まるでPCの電源を落とすように、人の命は意外とあっさりと、突然終わってしまう——。その事実を目の当たりにして、「1日1日を大切に生きよう」という気持ちが強くなりました。

今でも、この気持ちは強く残っています。

任期が終わって帰国してからは、「中東関係のビジネスを立ち上げたいから、力を貸してほしい」とオファーをいただき、再び会社員の道を選びました。

しかし、帰国後に入社した会社で、2社立て続けに解散を経験します。

1回目はベンチャー商社で、日本のアニメや漫画のグッズを中近東に販売する仕事をしていました。

勤務して2年ほど経った際に、同僚のアラブ人が持ってきた案件が大コケ。最終的に親会社の意向もあり、会社が解散となりました。

2回目はとある大手同族経営系の、エネルギー関連の商社でした。

ここでも中東関連の仕事を多角的に行っていましたが、コロナ禍による業績悪化を理由に、同じく会社が解散しています。

Photo : iStock / francescoch

—— 意を決しての転職で、2社立て続けの解散は、精神的なダメージも大きかったと思います。

大変な部分もありましたが、意外と大丈夫でした。紛争地での経験が大きかったのだと思います。

朝起きたら隣にミサイルが飛んでくることもないので、「なんとか生きていけるだろう」と思っていました。

だんだん、心臓に毛が生えてきたみたいです。

また、個人としてのメディアの露出が増えたことで、仕事もなんとかなるだろうという手応えはありました。

当時は「中東で一番有名な日本人」だったこともあり、ありがたいことにオファーはある程度ありました。

中東現地でのイベントに参加している写真をSNSにアップすると、現地のメディアなどから「こっちにいるなら、ぜひ来てくれ!」と仕事の依頼や取材依頼もいただきました。

過去に、中東の衛星テレビ局であるアル・アラビーヤ、アル・ジャジーラにも2回出演しましたし、UAEのドバイTVやアブダビTVなど、30社以上のメディアから取材を受けていました。

現地メディアに取り上げられた際の鷹鳥屋さん(写真:本人提供)

日本国内でもいくつかのメディアに取り上げられていましたし、その結果、日系企業やコンサルティングファームから中東案件で相談を受けることも増えていました。

興味関心に導かれて中東に入り浸って働いているうちに、「中東のことなら、鷹鳥屋に聞いてみよう」と思っていただけるポジションを確立していたのです。

興味関心の“ど真ん中”で生きる

—— 独立する道もあったと思います。なぜ、会社員としての仕事を継続しているのですか?

中東のマーケットは、安定しているとは言い難いのです。

例えば、プロジェクトのトップにいた人が権力の座を降りた瞬間に、数千万〜数億円のプロジェクトが一瞬にして消えてしまうことがあります。

実際に、それで会社が翻弄されるのも目の当たりにしてきました。

ときには契約、納期、支払いなどのトラブルに巻き込まれることもあります。とんでもない理由のトラブルが、異世界モノのように起こるのが、中東でのビジネスです。

これらを解消するには、ある程度以上の資金力や権力、後ろ盾が必要になってきます。

個人でリスクを負って、ビジネスをする環境とは言い難いところがあります。

—— 現在所属するアカツキに入社したきっかけも気になります。一見、中東ビジネスとは関係ないようにも思えますが……。

次の仕事をどうしようかといろんな人に相談していた際、CEOの香田(哲朗さん)が声をかけてくれたのです。

彼は大学の先輩です。卒業後は年に数回は食事をする仲で、中東マーケットなどについて継続的な情報交換をしていました。

サウジアラビアでのアニメエキスポをアレンジした話や、大好きな声優さんをアテンドした話など、中東でのエンタメとのかかわりを熱っぽく話していたんです。

香田は私に、「メーカーや商社ではなくて、もっとエンタメのど真ん中で生きたらどうだ」とオファーをしてくれました。

そこで初めて「本業としてエンタメ業界に就職する道があるのか」と気が付きました。

もともとエンタメが大好きだったのですが、比較的堅い社風のメーカーや商社でプロジェクトを担当していたこともあり、エンタメはあくまで副次的な「その中の一部」として認識していました。

「これからも今までの経験を生かして、同じような仕事をしていくのだろう」と、自分の中で勝手に考えていたのです。

「そうだ、自分の好きなエンタメにもっと生きよう!」とハッとして、すぐにアカツキの選考を受けることに決めました。

転石苔を生ぜず

—— 現在はどのような業務に従事しているのですか?

IP事業本部のグローバルマネージャーとして、アライアンス(企業間での業務提携)の仕事です。現在は出版社や版元の持つIP(知的財産)やキャラクターを連携させた、新規事業に取り組んでいます。

アイデアを出しながら国内外の多くの関係者を巻き込んでプロジェクトを推進していくのは、私が得意としている領域です。

なにより大好きなエンタメ業界で働けるので、仕事が楽しくて仕方ないです。

今までのキャリアの中で、アカツキが一番自分に合っていると感じています。仕事内容もですし、カルチャーの面でもです。

会社全体の心理的安全性が本当に高くて、別部署の人ともなんでも気兼ねなく言い合える風土があります。

なんといっても、アラブの伝統衣装で出社して受け入れてもらえる会社なんて、初めてですからね。

これまでのキャリアではカルチャーギャップに苦しんだこともありましたし、解散も経験しましたが、そこで得た経験が私をつくっているのですから、後悔はそこまでありません。

—— これから全く違う業界や職種など、未経験の環境に飛び込む人に、鷹鳥屋さんから伝えたいことはありますか?

「次の仕事や環境が自分に合うかなんて、飛び込んでみないと分からない」ということですかね。

目の前に置かれている食べ物が美味しいか美味しくないかは、口に入れてみないと分からないですよね。

外から見た業務内容と、いざ自分がその中に入って業務を行った時に受ける感覚は、全く異なると思います。

「思っていたのと違う」という違和感を持つことは、やってみないと分からないところがあります。

まず飛び込んでみて、合わなかったら転職すればいい。それくらいの単純さでいいと思います。

私なんて、最初の未経験転職で大手商社に飛び込んだ結果、体育会系の社風が合わずに1年で退職しています。

仕事は問題なくても、社風や人間関係が想像以上に仕事のパフォーマンスに影響を与えることだってあります。

「天職」というものがあるかは分かりませんが、楽しく仕事ができる仕事内容、仕事環境というのは自分の状況によっても変わります。楽しく働ける現在の仕事に出会えたのは、本当にラッキーなことで、言ってしまえばトライアンドエラーの先に出会った偶然なのです。

—— 素敵な「偶然」に巡り合うために、私たちができることはありますか?

「転石苔を生ぜず」といいますが、素敵な偶然に出会うには、やはり「転がり続ける」しかないと思います。

私は転がり続けた結果、スポッとちょうどいい穴にハマった感覚があります。転がらないと、当てはまる場所も見つからないのです。

実は今まで「アラブで一番有名な日本人になろう」とか、「アカツキを目指してキャリアを組もう」など、戦略的にキャリアを描いたことはありませんでした。

なので、「5年後、10年後はどうなっていたいか」という質問に答えられない自分が恥ずかしくなる時もありましたが、新卒の頃に10年後、自分が中東で暴れ回っているなど想像もできませんでした。

自分に合うところを探すためにキャリアをつくってきたのではなく、今の自分にとってやらなければならない、最適だと思うことを、ひたすら積み重ねてきました。

目の前のことを積み重ねていった結果が、自分のキャラクターであり、資産になっているんです。

もともとの特性であったオタク気質や歴史に対する知識、アラブの知識、SNSの活動や今までの仕事の経験。

一つ一つの資産がかけ合わさって、今の道につながっています。

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取材・文:岡田菜子、取材:佐藤留美、編集:オバラ ミツフミ、デザイン:岩城ユリエ、撮影:遠藤素子