【大変身】看護師からマーケターへ、ゼロから築く異業種キャリア
2021年6月3日(木)
はい。看護師になった理由には、私の生い立ちが関係しています。
両親が共働きをしていて、私はいわゆる“鍵っ子”でした。そのため、学校が終わると祖父母の家に遊びに行っていたのです。
ただ、祖父母の体調が少しずつ悪くなり、ホームヘルパーさんが自宅に訪問するようになりました。
ヘルパーさんは家事や買い物のお手伝いもしてくれます。すると、祖父母がとてもうれしそうにするのです。
その光景を見て、はじめは介護士を目指しました。
ただ、ある出来事があり、介護士を諦めて看護師になる道を選択しています。
「医療の知識がないために、慌てふためいてしまう」シーンに遭遇したからです。
高校生になり、就職前に詳しく介護士の仕事を知ろうと、介護施設のボランティアに参加していました。
高齢者の方は、体調が急変することがよくあります。
しかし、介護士は医療の知識を持たない人が多いので、有事の際に対処できないことが少なからずあったのです。
そこで、介護士ではなく、看護師を目指そうと、目標を切り替えました。
病院勤務からキャリアをスタートし、そこから3年間、重症病棟看護師として働いています。

大学在学時に、東日本大震災の被災地へ、ボランティアとして訪問しました。
その際に、バックパッカーとして世界を巡っていた一人の女性と出会い、「世界を自分の目で見ることの魅力」を教えてもらったのです。
彼女は私に「カンボジアに行けば、世界が変わる」と言いました。
海外に興味があったわけではありませんでしたが、「そこまで言うなら」と、夏休みを利用して現地を訪ねました。
カンボジアに到着して街に出たところ、私の視界に飛び込んできたのは、片腕がない大人や、涙を流しながら赤子を抱えるお母さんが、必死で「1ドル」をせがむ姿です。
あまりに衝撃的で、ショックで、言葉を失いました。
日本に帰国してからも、その光景が目に焼き付いて離れません。
「世界を変えたい」などと思っていたわけではありませんが、もっと知らなければいけないことがあるような気がして、貧困について詳しく調べてみることにしました。
その際に手に取った、“貧困ビジネス”の現実を描いた書籍『レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち―』が、私の人生を大きく変えることになります。
書籍には、物乞いをする人たちが、マフィアによって搾取されている現実がつづられていました。
つまり、私が目にした光景は、全てつくられたものである可能性があったのです。
母親が抱えていた赤子は、実はマフィアに連れ去られてきた可能性があり、片腕のない大人は、物乞いをするために腕を切り落とされたのかもしれないのです。
狭い視野で世界を見つめていたことが、悔しくてたまらなくなりました。

その通りです。
こうした悲しい現実を世界からなくすために、自分にはなにができるのかを自問自答し、いずれは海外に拠点を置こうと決めました。
そして同時に、夢を実現するために、まずは看護師として3年間働くことも自分に約束しました。
医療の知識がなにかの役に立つかもしれませんし、働く間に情報を集めれば、自分が進むべき道を定められると思ったからです。

私の勤めていた病院には、1年間で1度だけ、10日間のまとまった休暇を取れる制度がありました。
ケニアに拠点を移すまでの3年間は、この休暇を全て、海外訪問のために利用しています。
学生時代を含めると、カンボジア、ミャンマー、ネパール、ケニアと4カ国を訪れたのですが、中でも最も印象に残ったのが、ケニアにある「モヨ・チルドレン・センター(以下、モヨ)」でした。
モヨは、代表の松下照美さんが25年以上にわたって運営している、子どもたちの自立を支援するNGOです。
虐待を受けた子どもや、親がいない子どもを預かり、彼らが自分で生きていくためのサポートをしています。
モヨを訪れたときに、卒業生たちが、成長した姿を見せようと松下さんに会いに来ている姿を見て、胸が熱くなりました。
「私はモヨで、働くんだ」
雷に打たれたような刺激が全身に走り、ケニアに飛ぶまでの最後の1年は、モヨで働くための準備に充てました。
正直に話すと、ギャップばかりでした。
毎晩のように施設の警報が鳴ったり、定職に就けなかった卒業生が窃盗をしてしまったり、毎日が不安と恐怖でいっぱいだったのです。
治安がよくないのは分かっていたことですが、それを「知っている」のと「実際に体験する」のは、まるで違います。
そのギャップに気付いたのは、やはりケニアに拠点を移してからでした。
また、そうした現状を目にしたことで、自立支援の意義を考え直すようにもなりました。
子どもの安全が守られる意味で、保護施設があることは重要だと思います。
しかし、卒業後に自分で食べていけるわけではなく、事実として犯罪に手を染めてしまう人も少なくありません。
一体どうすれば、本当の意味での自立支援ができるのだろうかと、思い悩んでしまいました。
子どもたちの自立支援に向かってキャリアを踏み出したのにもかかわらず、「口にしているだけで、実行する勇気なんてないのかもしれない」という気持ちにもなりました。
……とはいえ、日本に帰る勇気もありません。
長い期間をかけて準備をしてきましたし、お世話になった方々にも見送られてケニアに来ていたので、変なプライドがあったのです。

立ち止まっていても仕方がないので、ツイッターのアカウントを開設し、ケニアで活動している日本人の方を探しました。
自分の考えを素直に話すことで、立ち止まっている現状を打破するヒントが得られるのではないかと考えたのです。
そこで出会ったのが、現在務めるRAHA KENYAの代表・河野リエさんです。
河野さんにお会いする時間をいただき、悩みを打ち明けると、当時の私にはない視点が得られました。
「ビジネスで自立支援に貢献する」という視点です。
私がずっと思い描いていたボランティアではなく、事業を興して雇用を創出することで、彼らの助けになれるのではないかという考えに至り、RAHA KENYAでインターンをさせていただくことになりました。
アパレルに興味があったわけでもないですし、ビジネススキルがあったわけでもありません。
それでも、ずっと持ち続けた情熱が、うそではないことを証明したかった——。このチャンスにかけようと、キャリアチェンジを決めました。

昨年の5月から正社員になり、マーケターとしてRAHA KENYAをたくさんの人に知ってもらう活動をしています。
これまで、製品開発の背景を多くの人に知っていただくことを目的とした購入型クラウドファンディングや、ブランドの認知拡大を目指したポップアップストアのオープンなどを担当しました。
このような仕事をすることになるとはゆめゆめ思ってもみませんでしたが、キャリアに悩み続けた数年前とは違い、今は毎日が充実しています。
登り方は変わっても、登っている山が同じだからだと思います。
孤児院の出身者や、犯罪に手を染めてしまった人は、定職に就くのが難しい現状があります。
しかし、RAHA KENYAが事業を拡大していけば、雇用を増やすことができ、そうした現状を少しでも変えていけるはずです。
RAHA KENYAのアイテムは、現地のテーラーさんが製作を担当しています。
この流れを加速していけば、働く人も、アイテムを手に取る人も、全員が幸せになれるサイクルがつくれると信じています。
モヨでは自分の無力さに打ちひしがれましたが、今は少しだけ、自分に自信が持てるようになりました。
また、退職したモヨと共同プロジェクトを実施することもでき、夢のかなえ方は一つではないということを、身をもって感じています。

まずは、選択肢を広げることが大切だと思います。
モヨを退職すると決めたときは、この先どうやって夢を実現しようか悩みましたし、自分にはなにもできないような気がしていました。
でも、あらゆる選択肢を検討することで、進むべき道を見出すことができました。
思っている以上に自分の視野は狭いし、世界は広いのです。
また、見出した選択肢が困難に思えても、自分に制限をかけないことも大切です。
私は看護師でしたが、必死に勉強して、分からないことをなんでも聞くことで、マーケターとしての知識と経験を得ることができました。
直感を信じて前向きになれば、きっと悩みを打破するヒントが得られるはずです。

合わせて読む:【RAHA KENYA創業者】就活60社落ちた私が、ケニアで起業した理由
取材・文:オバラ ミツフミ、撮影:遠藤素子、デザイン:黒田早希