—— ご自分のキャリアについて、どのくらい戦略的に考えてきましたか?
とても苦手な質問ですね(笑)。
数年単位でプランを立てたことはないですし、むしろ行き当たりばったりのキャリアを歩んできました。
新卒では急成長していたベンチャー企業・ミクシィに入社しましたが、意識が高かったわけでも、ベンチャーに興味があったわけでもありません。
もともとインターネットが好きでしたが、就職先として候補に挙げていたのは大手通信会社やSI(システムインテグレーター)会社です。
しかし、リーマン・ショックの影響から、もともと入社を考えていた企業の選考もうまく進みそうにありませんでした。
そんな折、大学の友人が「選考時期が早いからミクシィにエントリーする」と言うので、「それなら私も出そうかな」と、一緒にES(エントリーシート)を出しました。
すると、面接でも楽しく話すことができ、就活に苦戦していたのがうそのように、トントン拍子で内定が出たのです。
もともと入社するつもりはありませんでしたが、これだけスムーズに選考が進むということは、きっと自分に合っているのだと思いました。
また、平均年齢が若く、自由なスタイルで仕事をする社風も気に入り、縁を感じて入社を決めています。
—— ミクシィでは、どのような仕事をしていたのでしょうか?
Webディレクターとして入社し、新規サービスの開発に従事していました。
具体的な業務は、今でいうプロダクトマネージャーです。
デザイナーやエンジニアといった専門職と協働しながら、当時の主力サービス「mixi」に続くサービス開発に挑戦していました。
ミクシィには、若手に期待する文化があります。
入社1年目からサービスを企画し、立ち上げまで任せてもらうなど、これ以上ないほど充実した経験をさせてもらいました。
—— 充実したキャリアを歩んでいたにもかかわらず、なぜ退職したのですか?
サービスを大ヒットさせられるイメージが湧かなかったからです。
社内で活躍していた先輩や、他社でサービス開発を成功させている人たちを見たときに、彼らと私ではスキルに差がありました。
また、私は企画したサービスを3回中3回クローズさせており、これから大成功する未来を想像できませんでした。
エンジニアリングやデザインをゼロから学び、Webディレクターとして腕を磨く選択肢も検討しましたが、自分の強みがそこにないことは明白だったので、断念することに。
当時の上司にも「中澤はいろんな職種の人と円滑なコミュニケーションを取るのが上手だ」と言っていただいていたので、より自分の強みを発揮できるよう、職を変えてキャリアを歩むのもありかな、と考えていました。
—— ミクシィを退社した後は、どのようなキャリアを歩んできましたか?
子どもの頃から海外で働くことに興味があったので、一度日本を離れることにしました。
当時25歳でしたが、将来の結婚や出産を考えると、挑戦は早いほうがいい。
具体的なプランがあったわけではないものの、あとあと後悔するのは嫌だったので、「キャリアの早い段階で、やりたいことをやってしまおう」と考えたのです。
次の仕事も決めずに退職したので、よく「思い切ったね」とか「リスクを取るのは怖くなかった?」とか言われるのですが、「うまくいかなくても、最悪でも貯金がなくなるだけだ」と楽観的でした。
振り返ってみると、ミクシィで働いた3年間で、フットワークが軽くなっていたのだと思います。
海外経験のあるメンバーがたくさんいたので、「海外で働く」という選択肢が、それほど遠いものではなかったのです。
かつての自分なら、二の足を踏んでいたと思います。
—— 海外では、どのようなお仕事をしていたのでしょうか?
最初にインターンをしたのは、DeNA出身の方が立ち上げた東南アジアのスタートアップ・YOYO Holdingsです。
本格的に働く前に、一度英語のスキルアップをしようとフィリピンのセブ島で短期の語学留学をしていたのですが、その合間にインターンとして働かせてもらえることになりました。
たった2週間の勤務でしたが、YOYO Holdingsで働いた経験は、私にとっての財産です。
というのも、「海外で働きたい」という漠然とした思いが、正確には「グローバルな環境で働きたい」だということに気づけたからです。
YOYO Holdingsでのインターンは、自分のバックグラウンドを生かせるものでしたし、いろいろと挑戦をさせてもらえ、非常に充実していました。
ただ、実際に働いてみて気がついたのですが、私が描いていた「海外で働く」とは、少しイメージの異なる環境でした。
特定の国に根ざして働くことは、「その国に特化して詳しくなる」ので、ある意味ローカルな仕事でもあります。
一方で、私は「異なる宗教観を持つ人や、文化が違う世界中の人と働く」という経験がしたかったのです。
つまり、私にとって重要なのは、「海外で働く」ということではなく、「多様なバックグラウンドの人が混ざる文化で働く」という環境だったのです。
自分自身の価値観に気づけたことで、おぼろげだったキャリアの輪郭が、少しだけはっきりと見えてきました。
とはいえ、どこで働くかは決まっていなかったのですが(笑)。