母の死で生まれた後悔と葛藤、でも「管理職を手放すのが怖い」 

母の死で生まれた後悔と葛藤、でも「管理職を手放すのが怖い」 

NHK、リクルート、パーソルキャリアを経て現在、ダイバーシティや広報に関するコンサルタントとして働く松尾れいさん(43)。松尾さんは38歳で第一子を出産後、転職して初めて管理職に昇進します。およそ1年半後には、3つのグループマネージャーと広報部長を兼務することになりました。

しかしそんな松尾さんはやがて、自ら広報部長やマネージャーの職を手放すことに。それを決意させたのは、地元、佐賀を離れて14年間、東京で共に暮らしてきた母の死でした。予期せず逝ってしまった母、そしてなかなか作ることができない自身の子どもとの時間――。自分が働くことを通して本当に取り組みたいテーマは何なのか。それを実現するために、管理職というポジションはベストなのか。松尾さんの心は、迷いながらも変化していきます。

第3回では、「管理職を手放すのに何カ月も葛藤した」という松尾さんに、その経緯を詳しく聞きました。第1回はこちら


目次

NHK→リクルート広報 不妊治療経て妊娠も昇進が白紙に?

育休明けに転職、人生初の管理職に

NHKからリクルートグループに転職後、橋本病と子宮筋腫の治療を経て、第一子を授かった松尾さん。しかし同時に、本人にとってはマタハラと感じるような出来事も起こりました。産休・育休を経て復帰しますが、松尾さんはその後、パーソルキャリアに管理職として転職を決意します。

「もっとそばにいてあげて」亡き母の言葉と、管理職を手放す葛藤
Smartworks Coworking / Unsplash

「妊娠、出産前までは、ものすごく管理職になりたかったわけではありませんでした。でも、一度目指そうと思ってしまった分、キャリアの中で一度は管理職として頑張ってみたいという気持ちが強くなりました。『働く』ということは自分にとって引き続き大切な人生のテーマだったので、フラットに、管理職に挑戦できる会社に移ってみようと考えました」

2020年の9月に転職したパーソルキャリアでは、広報部門で、KPIの整備やメディアとの関係構築、メンバー育成などに着手します。そして同年10月には、広報部長と事業広報、企業広報の2部門のマネージャーに就任。さらに2021年4月には、ダイバーシティグループのマネージャーも兼務することになりました。

「自分自身が女性の生き方、働き方についてとても悩んできたし、周囲にも悩んでいる人がたくさんいる。それなのに、歴史的には全然ナレッジがたまって、活かされていかない。なぜなのだろう、というもどかしい思いも含めて、ダイバーシティにも興味を持つようになりました。そのため進んでグループマネージャーにも手を挙げたのです」

しかし、初めての子育てと管理職の両立は、やはり容易ではなかったといいます。

「そんなに仕事ばかりしなくていいんじゃない?」母の言葉の真意は


育休後に転職し、初の管理職に就任した松尾さん。広報部長と3つのグループマネージャーを兼務する中で、15人ほどのメンバーがいました。

「もっとそばにいてあげて」亡き母の言葉と、管理職を手放す葛藤
Tanaphong Toochinda / Unsplash

当時、広報部門は、社外のメディアに積極的にアプローチする「攻めの広報」に転じようとしていました。さらに、ダイバーシティも当時としては新しい概念だったため、実務に精通しているメンバーはほとんどいなかったといいます。平日は15人のメンバーの育成や、1対1で悩みや業務上の懸念を聞くミーティングなどに時間を費やした結果、早朝や深夜、土日に戦略を考えたり、資料を作ったりすることもしばしば。子どもと過ごす時間は必然的に減っていきます。

そんな中で、2021年10月、ずっと体調を崩していた母が脳梗塞で倒れます。1か月間の入院後は自宅療養へ。当時、近居だった松尾さんは、病院にも母の自宅へも毎日通ったといいます。

母の介護、子育て、3つのグループのマネージャー、そして広報部長。このままではパンクしてしまう。自分にしかできないものだけを残すとしたら、母の介護と子育て。仕事は自分以外でもできる――。そう決心した松尾さんは、2022年3月付で退職を申し出ます。

「それまではパソコンを抱えて会いに行っていました。母は私に『そんなに仕事ばかりしなくても、いいんじゃない?』と言ってきました。でも私はいつも『分かった、分かった』と。また治る、仕事を辞めれば、もっと一緒にいられる、と思い込んでいたのです」

しかし、わずか数カ月後の2022年1月、松尾さんの退職を待たずして、母は69歳でこの世を去りました。

松尾さんは今でも、当時の様子を鮮明に思い出すことがあるそうです。

「母の言葉は、裏を返せば私に対する『自分との時間も取ってほしい』というメッセージだったのではないか。母は決してそうは言わなかったけれど――。それなのに、私は仕事仕事で、母とゆったり過ごしたり、会話を楽しんだり、そういう時間を持つことがないまま逝かせてしまった」

また、仕事を最優先にしていた影響で、子どもと向き合う時間も育休中よりも減っていました。当時、松尾さんの息子はイヤイヤ期の真っ只中。保育園から帰宅したあと、「ママ、遊んで」とそばにやってきても「あとでね」「あと30分待って」とあしらうこともしばしば。息子は「どうしていつも『あとで』なの?今遊びたいのに」とべそをかいていたといいます。

「働くことは人生に影響を及ぼすのは確かなのですが、大切な人とゆったり過ごしたり、会話を楽しんだり、そういうことができない人生って何なのだろう、と。そんな『働く』でいいのか? このままだと、死ぬ時にいい人生だったと思えないまま死ぬぞ。そう思ったんですよね」

母の死をきっかけに、自分が働くこととどう向き合っていきたいのか改めて考えるようになった松尾さん。働くとしても、どの分野のどんなテーマで何をやっていきたいのか。子どもとどう向き合うのか――。そしてここから、松尾さんの中で新しい葛藤が始まりました。

「キャリア諦めちゃうの?」管理職を手放す怖さ


「母の死後、一気に会社を辞めるのは違う、と思いました。やりたいこともやれている。特に、その時はダイバーシティの領域に強い興味を持つようになっていました。では逆に、何が一番自分の中で、違うと思っているのだろう……そう思った時に『そうだ、管理職だ』と気づいたんですよ」

「もっとそばにいてあげて」亡き母の言葉と、管理職を手放す葛藤
Ben White / Unsplash

当時の松尾さんの業務は、広報部長としては経営戦略に基づいた広報戦略の立案や組織力の強化。2つの広報グループのマネージャーとしては、戦略に基づいた具体的な施策の検討、実行、メンバーの進捗管理や育成などでした。

しかし、松尾さんの中には、テーマとしてもっとダイバーシティに取り組みたい。業務の内容としては、マネジメントよりも、自身で業務を動かして誰かに感謝をされるような働き方をしたいという思いが湧いてきていました。

それでも、いざ「管理職を降りたい」と言い出すまでには葛藤があったといいます。

「出産をして、転職をして、介護と育児と両立させながら奮闘してきた管理職でした。なので、いざとなると『自分から手放すのが怖い』と思ってしまったのです」

周囲の反応も、迷いを助長しました。

「『管理職を降りる』というと『キャリア諦めちゃうんだね』と言う人もいたのです」

マネジメントの立場だったのに、そこから降りてしまうと、やりたいことをやりづらくなるのではないか。会社では”広報の人”と認識されているのだから、ダイバーシティにだけ専念すると苦労するのではないか。そういった声も上がりました。

会社からも引き留められました。政府は2003年以降、女性管理職の比率を最低でも30%にするという目標を掲げてきました。経団連も、女性活躍推進法に基づく「一般事業主行動計画」を策定し、管理職に占める女性の割合を2027年3月末までに30%以上とするという宣言を出しています。

これらの方針に倣うと、上場企業は否応なしに女性管理職の比率を増やす必要に迫られます。

しかし松尾さんは、画一的に女性の管理職比率を押し上げることには違和感があるといいます。

「それって本当のダイバーシティでしょうか。1人1人の個性や強みを活かすのがダイバーシティの考え方のはず。確かに、女性の管理職比率アップを目指すことで、女性が働く機会に恵まれたり、育児や介護などで時間的制限のある人でも働きやすい環境づくりが進んだりするのは良いことです。でも、多くの家庭では、家事や育児の比率は半々にはなっていないですよね。女性の負担が減らない中で女性の管理職を増やしても、本人に負担を強いてしまうことになるのではないでしょうか。自分自身の経験からも、私はそう感じるようになりました」

自分はどんなふうに生きたいのか。そして生きる上で仕事で実現したいことは何なのか。

松尾さんが会社やメンバー、そして自分と対話し、全てを“手放す”経緯と、その上で見つけた新しいステップについては最終回で紹介します(第4回に続く)。

(取材・文:富谷瑠美、デザイン:高木菜々子、編集:竹本拓也)

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