【開発秘話】目の前の一人のためにバッグを作る。「オブジェクツアイオー」デザイナー・角森智至の見ている景色
2021年3月30日(火)
実家が呉服屋を営んでいたこともあり、ファッションが身近な環境だったので、将来は「自分のブランドを立ち上げたい」と思っていました。
ただ、バッグをデザインしているとは想像していませんでしたね。
バッグデザイナーのルーツとなった文化服装学院に入学したのは、バッグ作りを学ぶためではなく、「作り手としてのキャリア」を積むためです。
自分のブランドを持つ以上、製品に対する深い理解を持つ必要性を感じていて、少なくとも「作り手としての視点」が不可欠だと思っていました。
スポーツに興味があったこともあり、入学時点では、シューズを専攻しようと考えていました。
しかし、一年次にバッグの製作を学んだことがきっかけで、志望を変えました。
バッグ作りが、自分の性に合っていたのです。
一年次にシューズとバッグ、帽子とジュエリー製作を学んで、それぞれの製作を通じて感じたのは、「バッグはものづくりの自由度が非常に高い」ということ。
例えば、シューズは足の甲の形を意識して作らなければいけないし、帽子はヘッドサイズに合わせて作る必要があります。
一方でバッグは、ものを入れて運ぶことさえできれば、様々なアイデアをもとに製作することができます。
その自由度の高さは、ファッションが大好きな私にとって大きな魅力でした。
華美な装飾をしない普遍的なデザインで、かつ品質に優れている同社の製品が好きでした。
素材から製法までとことんこだわる姿勢が、職人としてキャリアをスタートするうえで、非常に魅力的に映ったのです。
また、老舗であるのにもかかわらず、若い世代が中心となり、急成長していたことも大きな魅力の一つ。
私が就職活動をしていた時期は、2代目社長に就任した土屋成範さんが、ランドセル事業を大きく成長させていた時期でした。
入社後に知ったことですが、若い世代にどんどん任せるのが、彼のスタイルです。
インターンに参加してみて、若い世代が現場を主導している雰囲気を感じ取り、「この会社に入れば、きっと自分のキャリアのプラスになるはずだ」と直感し、入社を決めました。
土屋鞄製造所には、ランドセル職人として入社しました。
本来であれば、最低3年はランドセル製造の経験を積み、土屋鞄の職人として腕を磨きます。
しかし、僕のキャリアは特殊で、入社1年後には、財布を中心とした革小物の技術を学ぶために、取引先へ2年ほど出向することになりました。
その後、革小物ラインの立ち上げを行い、職人の仕事と兼務で生産管理を任されています。
むしろ、期待していました。
土屋鞄製造所に入社した理由の1つは、将来自分のブランドを立ち上げるにあたり、視野を広げるためです。
思ってもみない異動ではありましたが、自分の知らない世界に飛び込むチャンスだと感じていました。
また、出向期間が終了した後に、海外の工場で働くことが決まっていたのも、迷いなく出向できた理由の一つです。
異国の地でものづくりをするなんて、そう簡単に得られる経験ではありません。
どのような仕事になるかを鮮明にイメージできてはいませんでしたが、それでも今後広がっていくであろうキャリアに胸を高鳴らせていました。
土屋鞄製造所の子会社が取り組んでいた、OEM(他社ブランドの製品を製造受託する)チームの立ち上げです。
優れた品質の製品を、安定的に供給できる生産体制をつくるべく、海外の職人とコミュニケーションを取りながら、毎日必死で働いていました。
言語の違いがあったので、「このアイテムは赤色にしてね」という些細な会話も簡単ではありません。
そのため、言葉のやりとり以上に自分の手で作ってみせるなど、技術で会話をしていました。
そうすると、ただ日本から来た人ではなく、僕が技術者であることを理解し、信頼してもらえるのです。
「品質の高い製品とはなにか」という問いに、自分なりの答えを見つけることができました。
それまでは、ぼんやりと「メイド・イン・ジャパンの製品は優れている」と思っていたのですが、品質の高さは、生産国ではなく、作り手に左右されます。
私が一緒に仕事をした職人は、キラリと光る技術を持っていました。
彼らはメイド・イン・ジャパンと遜色ない製品を作れますし、中には日本人よりも高い技術力を持った職人もいる。
彼らとの仕事は私に、「職人の技術が十分に発揮されるよう、適切な製法や工程を考えて生産を進めること」が、品質の高い製品を作るうえで大切なのだと教えてくれました。
日本に戻り、土屋鞄本社で革小物や鞄の製造責任者を務めながらブランドの構想を考えていたところ、土屋鞄製造所で働いていた元同僚の沼田と一緒に仕事をする機会がありました。
彼はマーケターで、私は作り手です。
「2人の知見を掛け合わせれば、なにか面白いプロジェクトになるのではないか」と考え、沼田に相談したことが、「objcts.io」のきっかけとなりました。
初めての製品は、看板商品である「ソフトバックパック」の原型となるバッグです。
非常にありがたいことに、用意した製品は完売。
しかし、購入した知人から、価格とデザインに対して想定していなかったフィードバックをもらいました。
当時販売していたバッグは使いやすいものの、強い個性がなかったのです。
「より深く愛される製品にしていくには、ブランドが掲げるコンセプトや、それを体現するデザインが必要だ」。——知人の率直な意見は、私にそんな示唆を与えてくれました。
現在掲げている「イノベーターのワードローブ」というコンセプトは、そうした背景から生まれたものです。
このコンセプトをもとにプロトタイピングを重ね、テックフレンドリーな機能性と、スタイルを選ばないミニマルなデザインを兼ね備えた「ソフトバックパック」が完成しました。
「自分の手掛ける製品を通じて、現代を生きる人々の生活を豊かにする仕事」が、デザイナーだと思っています。
では、どうすれば「現代を生きる人々の生活を豊かにする仕事」が実現するのか。
「目の前の一人を深く感動させる製品」を考え抜き、製品企画からお客様へ届けるまでのあらゆる過程に、時間が許す限り関わるのです。
間違いなく、正しい選択をしたと思います。
作り手としてのキャリアがあるからこそ、生産管理のメンバーや職人と同じ視点で会話でき、その結果として胸を張れる製品を生み出せている。
少なくとも「objcts.io」のデザイナーとしては、正しくキャリアを歩めてきたのではないかと感じています。
仕事以外で大きく影響を受けたのは、ユダヤ人心理学者のヴィクトール・フランクルが、アウシュビッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還した経験を書いた『夜と霧』です。
印象的だったのは、極限状態に追い込まれたフランクルが、生死の分からない妻と想像の中で会話をするシーン。
フランクルは、自分の生死が危ぶまれる状態にあっても、心から愛する人のことを思い出し、至福に満たされていたのです。
同書からは、「時代が変わろうとも、人間が感じる喜びの根源は変わらない」ということを教わりました。
新型コロナウイルスしかり、現代は心が塞ぎ込んでしまうような、息苦しいニュースであふれています。
そうしたときは、自分がなにをすべきなのかを見失ってしまう。
でも、「時代が変わろうとも、人間が感じる喜びの根源は変わらない」のであれば、私たちがやるべきことも本質的には変わらないはず。
つまり、私であれば、「使い手の気分を高揚させ、永く愛せる製品」を作り続けるということです。
読み返すたびに、ものづくりを生業とする人間に求められる本質を再認識させられます。
デザイナーに限った話ではありませんが、やりたいことが明確なのであれば、その道に進むのがベストな選択肢だと思っています。
ただ、やりたいことが明確ではない人の方が、圧倒的に多いですよね。
私も「自分のブランドを立ち上げたい」という思いはあったものの、その目標はおぼろげで、具体的にやりたいことが見つかったのは20代後半になってからです。
そういう人は、「人と環境で働く場所を選ぶ」ことをお勧めします。
私が土屋鞄製造所に入社した理由は、会社が急成長していて、働いている人たちがアグレッシブで面白かったからです。
ランドセル作りから革製品の技術を学ぶことはもちろん、「成長し続ける会社で、アグレッシブな人たちと過ごす時間が多ければ、ものづくりを生業とする人間としての視野が広がっていくだろう」という仮説がありました。
結果的にその仮説は的中していて、デザイナーとしてのキャリアを支える刺激的な経験を積むことができました。
人と環境に納得できているのであれば、それ以外のことは考えすぎなくてもいいと思います。
働く過程で視野が広がり、思いもしなかった成長や、ときには人生をかけて成し遂げたい目標が手に入れられるはずです。
そこで得られた経験は、やがて自分らしい人生を生きる土台として、あなたのキャリアを支え続けてくれると思います。
取材・構成:オバラミツフミ 編集:小池真幸、井上茉優 撮影:遠藤素子