「やりたい仕事」と「住みたい場所」をてんびんにかけた
──大学進学のタイミングで、生まれ故郷の北海道函館市から上京されたと伺いました。きっかけは何だったのでしょう?
阿部:僕が進路について考えていたのが2000年くらいで、当時は地方でできる仕事が限られていました。僕は出版や映像関係の仕事に興味があったのですが、地元の函館ではそういう自分が「やりたい仕事」ができる環境が見つけられなくて。函館のことは好きだったので住み続けたい気持ちはありました。でも「やりたい仕事」と「住みたい場所」をてんびんにかけた結果、地元を離れることに。都会に対する憧れもあったので、東京の大学に進学することに決めました。
──大学では何を学んでいたのですか?
阿部:社会学部でマスコミやメディアを専攻していました。ですが勉強よりも旅行に夢中になって、青春18きっぷで日本一周したり、ヨーロッパやアジア諸国に足を運んだりして。「見たことがないもの」「やったことがないこと」に出会えることが、何より楽しかったですね。
──大学卒業後は就職せずに、オーストラリアへ渡航されたそうですね。就職を選択しなかったのはどうしてですか?
阿部:旅行しているうちに、海外に「住んでみたい」という気持ちが大きくなったんです。「就職せずに海外に行ってどうするんだ」と言う友人もいましたが、「海外に行ってよかったね」と思われるような経験を積んでやると決意して、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。現地では畑でブドウを収穫したり、カジノでバーテンダーをしたりしていました。
勤務していたゲストハウスでは世界中から訪れる人が「うちの国はこんな特徴がある」「私が生まれた街はこんなところだよ」とさまざまな場所の話をしてくれて。行ったことがない場所がまだまだたくさんあることを実感しました。オーストラリアでの生活を終えて、バックパッカーとして世界一周の旅に出ることにしたんです。

写真提供:阿部光平
就職活動はしなかった。香港の食堂での出会いから、ライターとしてデビュー
──世界一周の旅はどれくらいの期間続けていたのでしょう?
阿部:約1年ですね。オセアニアからスタートして、北米、中米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジアへ。最後に訪れた場所は香港でした。
当時の僕はひげがボーボーに伸びていて、絵に描いたようなヒッピースタイル。小汚い姿で大衆食堂で食事をしていると、知らない おじさんが「兄ちゃん何やってんの?」と声をかけてきて。自分用の記録としてノートに書いていた旅の日記を見せたら、「うちで書く仕事しない?」と誘われました。そのおじさんは実は航空会社の機内誌を作っている人だったんです。旅行して文章を書いて、お金をもらえるなんて最高の仕事だと思い、「やります」と即答。東京に戻って1年間、香港や中国など各地を旅して記事を執筆していました。
──偶然の出会いから、ライター人生が始まったのですね。もともと書くのは得意だったのでしょうか?
阿部:自分に文章の才能があるとも適性があるとも思っていませんでした。でも知らない人に会ったり、見たことがないものに触れたりできるから、取材するのがとにかく楽しくて。執筆を続けていると、記事を読んだ出版社や編集プロダクションの人が声をかけてくれて、ライターとしての仕事がどんどん増えていきました。最初は旅行系が中心だったのが、タウン誌やアウトドア誌からも依頼を受けて、ジャンルの幅も広がっていきました。

写真提供:阿部光平
──フリーライターとして順調なスタートに思えますが、生計はライターだけで?
阿部:いえ、最初はライターだけでは生活費を賄えなかったので、日雇い肉体労働などのアルバイトもしていました。でも1〜2年くらいたって、アルバイトは全部辞めることにしたんです。30歳を目前にして「このままでいいのか?」と考えたときに、ずるずると中途半端な状況が続いたらどうしようという漠然とした不安があって。ちょうど編集プロダクションから編集業務も受け始めていたこともあり、ライター・編集職だけで頑張っていこうと心に決めました。
編集プロダクションの仕事は激務で、次々に依頼があったのでお金に困ることはありませんでした。でも編集の仕事は未経験だったので、最初は右も左もわからないところからのスタート。ページの作り方からラフの描き方、企画書作りやスケジュール調整まで一から教えてもらえたのはありがたかったですね。

写真提供:阿部光平
ライター・編集者のスキルを生かして、次は「地元・函館のこと」がやりたくなった
──忙しくて、つらい気持ちにはなりませんでしたか?
阿部:バイトを辞めてライター・編集者一本で生きることがかなったので「最高!」という思いしかありませんでした。正直、ご飯を食べられるようになるまでに10年くらいかかるかと思っていたので。
目標を達成できた一方で、もっと「自分がやりたいこと」、クライアントワークではない、自分自身の関心ごとに取り組みたいという気持ちも湧いてきて……それが地元の北海道函館市のことでした。
──大学進学時に「やりたいこと」と「住みたい場所」をてんびんにかけた結果、離れた地元への思いがずっと残っていたのですね。
阿部:そうなんです。ちょうど子どもが生まれて「北海道で子育てしたい」という思いもあったので、函館へのUターンを意識し始めていました。でも地元を離れて10年以上たっているので「今の函館」がどうなっているのか、よくわからない。自分と同じように函館を離れて東京で働いている人たちと話をしていると「地元には帰りたいけど、仕事あるのかな」という声もよく耳にしていました。
きっかけは自分が知りたいということだったんですけど、「今の函館」を取材して発信することは、他の人にとっても興味・関心のあることなのではないかと思って、ローカルメディア『IN&OUT -ハコダテとヒト-』を立ち上げました。
──『IN&OUT -ハコダテとヒト-』では函館で暮らす人だけでなく、函館を離れて東京で働く人のインタビューも掲載されていますよね。なぜ地元を離れた人にも話を聞くのでしょう?
阿部:「函館最高!」という内容にはしたくないからです。自分自身、どこか「物足りなさ」を感じて地元を離れたわけで、いいところばかりではないと思うし、出ていく人の気持ちも平等に取り上げたい。函館に住んでいる人と離れた人、内側と外側から語ることで、リアルな函館が見えてくる気がします。
公平な立場で語りたいので、広告などは一切入れていません。なので収益としてはゼロ。ですが、表現活動としての場を持てたこと、離れていながらも地元との接点ができたことは、自分にとって大きなメリットとなりました。

写真提供:阿部光平
地元に戻ったら舞い込んだ、テレビのナビゲーターやラジオパーソナリティ、商品開発の仕事
──『IN&OUT -ハコダテとヒト-』を立ち上げてから、仕事に変化はありましたか?
阿部:地元との「関係性」ができたことで、大学講義やイベントの登壇のオファーがくるようになりました。コロナ禍でリモートワークが浸透して東京から函館に拠点を移したときには、「IN&OUTの編集長が地元に帰ってくるらしい」と自分のことを認識してくれている人もいたので、ありがたいことにいろんなお仕事の依頼をいただきました 。テレビのナビゲーター、ラジオパーソナリティ、商品開発、企業のブランディングと、予期せぬ“球”がたくさん飛んでくる。やったことない仕事内容でも、地元ではまだまだ「ルーキー」なので、何でも挑戦してみようと思っています。今ではライターの仕事が6割、それ以外の仕事が4割ほどを占めています。
──今までやってこなかった仕事に挑戦することに、不安な気持ちはないですか?
阿部:不思議なくらい、ないんですよ。もしかしたら若い頃にパンクばかり聴いていた影響ですかね。 「自分の人生は自分で作ろう」というDIY精神が知らぬ間に植え付けられたのかもしれません。あらゆることは、自分次第。これからも経験したことがない、新しいことにどんどん挑戦していきたいです。
──新しいことに挑戦し続けている阿部さんからは、まさに「パンクの精神」を感じます。今後のビジョンはありますか?
阿部:5年後、10年後といった、ビジョンはありません。よくないな、とも思うのですが(笑)。
ただ、「今やりたいこと」は常にあります。実は、会社をつくりたいなと思っているんです。僕は一度も就職したことがなくて会社に興味もなかったのですが、企業のインタビューで社員の人たちに話を聞いていると「会社ってすごいな」と思えてきて。そもそも会社に興味を持てなかったのは「会社で働くことは面白いよ」と言う大人がほとんどいなかったからかもしれません。会社で生き生きと働く人たちの声を聞いて、組織体があるからこそできることもあるし、それを自分で運営してみる経験は面白そうだと感じています。

阿部さんが制作した函館のガイドブック
でもフリーランスの働き方も、失敗も成功も全部自分のものだとシンプルに考えられるところが潔くて好きなんです。評価が全て自分に向いてくることが、怖さであり、楽しさでもある。だから形や内容を限定せず、年を取ってもずっと仕事し続けていきたいと思っています。
ライターとしても、年齢を重ねるほど良い文章が書けるようになる気がしています。人生経験が増えて理解できることの幅が広がると、いろんな人の気持ちや立場がよりわかるようになると思うので 。70歳の自分がどんな文章を書けるようになっているのか、今からワクワクしています。
(文: 冨田ユウリ、デザイン:高木菜々子、編集:山本梨央、筒井智子)